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[[有田ドラッグ]]を経営し言論活動でも名を馳せた[[有田音松]]の次男として生まれる。[[東京帝国大学]]倫理科を卒業し、[[大阪薬学専門学校 (旧制)|大阪薬学専門学校]]講師・終戦連絡大阪事務局参与などを歴任。[[第22回衆議院議員総選挙|1946年総選挙]]に[[日本自由党 (1945-1948)|日本自由党]]公認で初当選、その後[[民主自由党]]→[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]に所属し当選5回([[大阪府第1区 (中選挙区)|大阪1区]])。[[衆議院]]運輸・人事委員長や民主自由党総務・自由党副幹事長を歴任し、[[第3次吉田内閣]]では[[商工省|商工]]→[[通商産業省|通産]][[政務次官]]を務めた。[[1953年]](昭和28年)の国会予算審議では、[[右派社会党]]の[[堤ツルヨ]]議員から「断末魔の自由党」と野次られたのに対して「パン助だまれ」と応え、女性蔑視の暴言として問題になった([[1953年]][[8月2日]]『[[読売新聞]]』)。
[[造船疑獄]]の発覚から、1954年(昭和29年)2月16日に国会法第33条に基づく逮捕請求が行われ 同23日に衆議院本会議は3月3日までの期限付の[[逮捕許諾決議]]が可決されて逮捕された。裁判では有罪が確定した。
造船疑獄で
== 関連項目 ==
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