「旧ジャーディン・マセソン商会ビル」の版間の差分

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[[ファイル:Shanghaiviewpic6.jpg|thumb|300px|一番手前がジャーディン・マセソン商会ビル]]
'''ジャーディン・マセソン商会ビル'''([[中国語]]:{{lang-en|Jardine Matheson Building}}、{{lang-zh|怡和洋行大楼}})は、[[上海市|上海]][[外灘]]に位置している建築物。旧地番から外灘27号とも呼ばれる。
 
== 歴史沿革と建築様式 ==
[[Image:Jardinbill.jpg|300px|right|thumb|ルネサンス風建築のジャーディン・マセソン商会ビル]]
[[ジャーディン・マセソン商会]]は[[1832年]]に[[中国]]の[[広州市|広州]]([[沙面島]])で創業して以来、極東方面で営業を展開していった。[[1843年]]に上海で認可された最初の貿易会社として支店を開き、翌年、外灘27号の土地を入手して、2階建ての植民地建築風のビルを建築した。
 
ジャーディン・マセソンは初期には[[阿片]]の取引によって収入を得ていたが、その後も長い間上海最大規模の貿易商社であり続け、徐々に営業を拡大し、輸出入や、黄河経由の水上運輸で大きな利益を上げた。さらに、保険業、不動産業などにも手を出すようになった。また、[[紡績]]工場など多くの企業を傘下に入れ、「洋行の王」と呼ばれるようになった。
 
[[1920年]]から[[1922年]]11月にかけて4度目のビル立て替えを行い、現在のビルを建設した。
 
== 建築 ==
建築は1棟7階建てであり、外部は[[ルネサンス建築|ルネサンス風建築]]であり、[[花崗岩]]で覆われている。建物前面中央の3階から5階の部分には円柱が5本あり、6階と5階の間に細かい掘り込みが施されている。設計はスチュワードソン&スペンス(思九生洋行)とされる。
 
その後、このビルは[[1949年]]の中国共産党上海占領後、政府に接収され、1955年からは上海外国貿易局が使用するようになった。
== その後 ==
このビルは[[1949年]]の中国共産党上海占領後、政府に接収され、1955年からは上海外国貿易局が使用するようになった。
 
現在は各種店舗が入っており、1階には[[元禄寿司]]が入店している。
 
== 長州五傑との関わり ==
[[1863年]](文久3年)、[[ジャーディン・マセソン|ジャーディン・マセソン商会]]は[[井上馨|井上聞多]]、[[遠藤謹助]]、[[山尾庸三]]、[[野村弥吉]]、[[伊藤博文]]の[[長州五傑]](長州ファイブ)のイギリス留学を支援する。横浜支店([[英一番館]])支店長の[[ウィリアム・ケズウィック]]([[ウィリアム・ジャーディン (船医)|ウィリアム・ジャーディン]]の姉の子)は[[チェルスウィック号]]を手配。[[5月12日]](旧暦)、5人を乗せた船は横浜を出港し、上海に向かった。
 
[[5月18日]]頃 上海に到着し、[[ジャーディン・マセソン|ジャーディン・マセソン商会]]上海支店の支店長に面会した。話が通じず、結局支社長は「お前達は何のために洋行するのか?」と聞いているらしいことは分かった。そこで「[[海軍]]を研究する」と言おうとして「ネイヴィー」とすべきところを間違って「ネビゲーション」の一言を発した者がいた。この言葉を支社長は「ナビゲーション=航海術」と理解したという。
 
当時の上海は東アジア最大の西欧文明の中心地として発展していた。長州五傑は、上海の繁栄と100艘以上の外国軍艦およびその他の蒸気船を目の当たりにして、「[[攘夷]]」という無謀なことをすれば日本はすぐに滅ぼされてしまうだろうとの判断から「[[開国]]」へと考えを変えていった。
 
== 関連項目 ==
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*[[英一番館]] - ジャーディン・マセソン商会横浜支店
*[[グラバー商会]] - ジャーディン・マセソン商会長崎代理店
*[[長州五傑]]
 
== 参照 ==