「藤原宮子」の版間の差分

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なお、病気回復の時に関わった僧侶が[[玄ボウ|玄昉]]であり、[[橘諸兄]]のもとで玄昉が権力を振るったのはこの功績によるものと考えられる。
 
[[梅原猛]]は、『海人と天皇』新潮文庫(9503)で、宮子は不比等の養女でであり、[[紀伊国|紀州]]の[[海女]]であったとする説を考証している。
「文武天皇が紀州[[御坊]]へ療養の旅をしていたとき、美しい海女を見初めたが、いくら美女でも海女の娘では后にはなれないので、権力者・不比等が一旦養女とし、藤原の貴種として嫁入りすることとなった。」というのである。