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'''猷'''(みち)
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天保5年(1834年)5月28日生まれ。通称は和之進。名は定猷のほか、定統、猷。[[官位]]は従四位下、[[越中国|越中]]守、[[侍従]]。天保13年([[1842年]])、父・定和の死で幼少の身ながら藩主となった。しかし藩主就任の年、桑名の大火と飢饉が発生する。その後も安政元年([[1854年]])には[[安政の大地震]]が起こるなど、その治世は天災のために多難を極め、財政は天災に対する救済費、対策費などで火の車となった。
 
[[嘉永]]6年([[1853年]])、[[徳川家定]]が第13代将軍になると、同じ「定」の字を避けるため、'''猷'''(みち)と名乗った。安政6年([[1859年]])、[[京都]]警護を命じられたが、藩内における財政窮乏問題などからの心労で病に倒れ、同年8月21日、または8月22日に26歳の若さで病死した。死後、長男の定教は幼少で妾腹でもあったため、正室の子である初子に婿養子の[[松平定敬]]を迎え、家督を継がせた。法号は英哲院殿寛誉至徳健堂大居士。墓所は東京都江東区[[白河 (江東区)|白河]]の[[霊巌寺 (東京都江東区)|霊巌寺]]。
 
{{桑名藩主|久松松平氏|3代|1842年 - 1859年}}