「テクノロジーアセスメント」の版間の差分

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[[日本]]でテクノロジーアセスメントが紹介されたのは[[1969年]]の11月に[[科学技術と経済の会]]のメンバーを中心に組織された産業予測特別調査団が訪米し、テクノロジーアセスメントという言葉を持ち帰ってきたことから始まる<ref>「アポロ以後の産業と技術」朝日新聞、1969年11月26日、4頁。<br />「肌で感じた'70年代・アメリカのシステム技術」『ダイヤモンド』1969年12月8日号、20-27頁。<br />「アメリカに見る産業の将来-産業予測特別調査団報告(1)」『技術と経済』1970年1月、37巻、14-23頁。<br />小林宏治(1970)「企業における産業予測の方向-産業予測特別調査団に参加して-」『経団連月報』18巻2号、44-47頁。</ref>。その翌年から[[科学技術会議]]<ref>科学技術会議第5号答申「1970年代における総合的科学技術政策の基本について」1971年4月21日決定。</ref>、[[産業構造審議会]]<ref>産業構造審議会中間答申「70年代の通商産業政策の基本方針はいかにあるべきか」1971年5月。</ref>、政府審議機関<ref>たとえば、経済審議会技術研究委員会「技術研究委員会報告」1972年4月。</ref>などにおいて取り上げられ、同時に[[渥美和彦]]、[[唐津一]]、[[岸田純之助]]、[[白根禮吉]]、[[平松守彦]]、[[牧野昇]]、[[松下寛]]、[[増田米ニ]]という民間有識者からなる八人委員会でもTAについての提言がなされている<ref>八人委員会(1970)「テクノロジー・アセスメントの提言」『別冊中央公論:経営問題』9巻4号、266-270頁。</ref>。また、1970年4月に京都で開かれた[[国際未来学会]]においても[[アメリカ国立科学財団]](NSF)のロバート・W・ラムソンがTAに関する発表を行っている<ref>ロバート・W・ラムソン(1970)「技術進歩にバランスを」『エコノミスト』48巻19号、13-16頁。</ref>。[[1972年]]に[[科学技術庁]]からいくつかの事例研究結果が発表されている。それらを機に日本の民間企業やシンクタンクに広がり、テクノロジーアセスメントの取組が始められた。
 
シンクタンクでは、[[http://www.iftech.or.jp/ 未来工学研究所]]が、科学技術庁が実施した事例研究のいくつかを受託しているほか、発足当初の基幹研究テーマとして「日本型科学技術開発システムの基本設計」(1971-74年)や「開放系技術と社会的受容定着条件の検討」(1978年)など、技術の社会的次元を対象とした科学技術政策研究を実施している。また、[[野村総合研究所]]も事例研究を受託しているほか、1972年には『テクノロジー・アセスメントと企業』と題した報告書を編集している。
 
[[経済同友会]]が1973年3月に発表した「社会と企業の相互信頼の確立を求めて」と題する提言では、公害・環境破壊の深刻化や消費者運動の高まり、土地や一部商品への投機的行為等から企業行動のあり方が厳しく問い直されているなかで、[[企業の社会的責任]]を果たすべく、「自らの科学技術開発過程の企画、研究開発、使用段階を通じて、体系的にテクノロジー・アセスメントを実施する企業内組織の確立を図る」と宣誓している<ref>経済同友会(1970)「社会と企業の相互信頼の確立を求めて」(1973年3月6日)『経済同友』295号、5-10頁。</ref>。1975年にかけて、[[http://www.iftech.or.jp/content/jst/jst.htm 技術同友会]]<ref>技術同友会(1975)『総合的科学技術の推進について』1975年7月18日。</ref>や[[経済団体連合会]]<ref>経済団体連合会産業政策委員会(1975)『混迷する世界経済と今後のわが国産業構造(試論)』1975年2月4日。</ref>も同様の提言を行い、同時期に通産省産業技術審議会テクノロジー・アセスメント部会では民間によるTA推進を検討していたが、中小企業がTAを実施することによる負担の増大を懸念する[[中小企業庁]]や生活産業局の反対に遭い、実施の義務づけを見送った。日本では[[公害]]や[[石油危機]]に意識が移った1974年頃をピークにして、民間企業によるTA活動は衰退していったとみられる。
 
科学技術庁計画局では、行政による縦割り型のTA活動に限界を感じ、1977年から78年後半にかけて米国テクノロジーアセスメント局のような議会TA機関の創設を目指した。だが、議員は議会で活動を引き受けることは念頭になく、国会調査局も議員の反応が鈍いため及び腰であったとされる。結局折衝は物別れに終わり、科技庁では同時期を境にTAの事例研究から手を引いた<ref>大澤弘之(2006)「科学技術プロジェクトの成否について」『資源テクノロジー』58号、21-31頁。</ref>。