「白井藩」の版間の差分

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== 概要と藩史 ==
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、白井は[[関東管領]]・[[山内上杉家|山内上杉氏]]の支配下にあり、関東管領の居城として関東支配の拠点となった時期もある。[[天文 (元号)|天文]]20年([[1551年]])、時の[[関東管領]]・[[上杉憲政]]が[[北条氏康]]に敗れて[[上杉謙信]]のもとへ逃亡した後、白井は長尾氏(上杉謙信の一族とは別族)の支配下に入り、長尾氏は北条氏の家臣となった。[[天正]]18年([[1590年]])の[[小田原征伐の役]]で[[白井城]]は[[前田利家]]・[[上杉景勝]]の攻撃の前に落城し、長尾氏は没落した。その後、[[関東]]に入部した[[徳川家康]]は、白井に[[本多康重]]を2万石で入れた。これが白井藩の立藩である。康重は[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]で[[徳川秀忠]]軍に属して[[上田城]]の[[真田昌幸]]と戦い、殿軍を務めた武功を賞されて翌年、[[三河国]][[岡崎藩]]に5万石で加増移封された。ちなみに康重は、藩政においては城下町の整備に尽力し、藩の基礎を固めた。
 
康重に代わり、慶長6年([[1601年]])に[[松平康長]]が2万石で入るが、翌慶長7年([[1602年]])にすぐ[[下総国]][[古河藩]]へ移封となった。代わって[[徳川四天王]]で有名な[[井伊直政]]の次男・[[井伊直孝]]が1万石で入る。直孝の長兄・[[井伊直勝]]は父の後を継いで[[彦根藩]]主となっていたが、何事においても直勝は病弱で、[[大坂の陣]]においても直勝に代わって直孝が出陣して武功を挙げたこと、直勝よりも直孝のほうが直政の才能を受け継いでいたことなどを評価されて、[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])、家康の命により直勝は廃されて直孝が新たに彦根藩主となった。