「ジュルジェヴダン」の版間の差分

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'''ジュルジェヴダン'''([[セルビア語]]:{{lang|sr|Ђурђевдан / Đurđevdan}})あるいは'''ユリェヴォ'''([[クロアチア語]]:{{lang|hr|Jurjevo}})は、[[南スラヴ人]]の祝日であり、[[聖ゲオルギオスの日]]にあたる[[ユリウス暦]]の4月23日([[グレゴリオ暦]]で5月6日)がこれにあたる。'''ジュルジェヴダン'''には多くの[[セルビア人]]の家庭が[[スラヴァ (セルビア正教会の習慣)|スラヴァ]]を迎え、彼らにとって重要な祭日となっている。また、この祭日は古来よりの春の訪れを祝う風習を引き継いでいる。[[聖ゲオルギオス]]<ref>[[セルビア語]]では聖ジョルジェ({{lang|sr|Свети Ђорђе / Sveti Đorđe}})、[[クロアチア語]]では聖ユライ(Sveti Juraj)と呼ばれる</ref>はキリスト教の信仰を守るために殉教したとされており、ゲオルギオスを描いた[[イコン]]では馬にまたがり竜を退治する姿が描かれる。ジュルジェヴダンは[[セルビア]]や[[モンテネグロ]]、[[ボスニア・ヘルツェゴヴィナ]]や、世界各地のセルビア人[[ディアスポラ]]を含む、多くのセルビア人によって祝福される。
 
[[クロアチア]]では、[[カトリック]]教徒による聖ゲオルギオスの祝日、ユリェヴォがあり、グレゴリオ暦の4月23日に祝福される。'''ユリェヴォ'''は、[[クロアチア]]の田舎、特に北中部の[[トゥロポリェ]]([[:en:Turopolje|Turopolje]])や[[ゴルニャ・ストゥビツァ]]([[:en:Gornja Stubica|Gornja Stubica]])などでおもに祝福される。古来よりの伝統では、この日は春の訪れを告げる日であった。この祭りはたいまつが用いられる点で、北欧などで春の訪れを告げる古来の祭りである[[ヴァルプルギスの夜]]と同様であ似ている。トゥロポリェでは、ユリェヴォは[[スラヴ神話]]と関連づけられ、5人の美しい乙女が選ばれ、スラヴ神話の女神[[ドドラ]]([[:en:Dodola|Dodola]])を演じる。彼女らは木の葉を見にまとい、祭日中歌い続ける。
 
[[コソボ]]南部に住む[[ゴーラ人]]もこのジュルジェヴダンを祝う習慣がある。彼らは[[スラヴ人]]の[[ムスリム]]であり、オスマン帝国統治下の18世紀に[[グロボチツァ]]([[:en:Globočica|Globočica]])周辺で[[正教会]]から[[イスラム教]]に改宗した人々の末裔である。改宗後もキリスト教徒であった頃の文化を一部受け継いでおり、ジュルジェヴダンも残っている。教会法上の正当性が広く認知されていない[[モンテネグロ正教会]]([[:en:Montenegrin Orthodox Church|Montenegrin Orthodox Church]])でもこの祝日を祝っている。
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[[Image:Djurdjevi stupovi 016.jpg|290px|thumb|right|[[セルビア]]、[[スタリ・ラス]]にある[[ジュルジェヴィ・ストゥポヴィ修道院]]。聖ゲオルギオス(聖ゲオルギイ、聖ジョルジェ)を記念して12世紀にセルビアの王[[ステファン・ネマニャ]]によって建てられた正教会の修道院である]]
[[ボスニア・ヘルツェゴヴィナ]]では、主要な宗教的祭日は、信仰を違える者も含めて全ての民族で祝福されているが、[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]の崩壊、[[ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争]]の中で、宗教的祭日が、宗教の違い・民族の違いを示す指標となり、民族主義的なアピールに利用されるようになると、そうした伝統は衰えた。[[ローマ・カトリック教会]]のクリスマス、[[正教会]]のクリスマス、そして2つの[[イスラム教]]の祝日は全ての民族で認知されており、ジュルジェヴダンも同様に、[[正教会]]と関連が強く、したがって[[セルビア人]]の祭日とみなされていたが、宗教の異なる他の民族でもこの日を祝う習慣がある。[[メシャ・セリモヴィッチ]]([[:en:Meša Selimović|Meša Selimović]])の小説「死と[[ダルヴィーシュ]]」では、熱心な[[ムスリム]]である主人公がこの祝日を危険な異教の残滓だと主張するが、物語の終わりに街で全ての民族がこの日を祝っている(この街は[[サラエヴォ]]であるといわれている)。
 
「ジュルジェヴダン」はセルビアの楽曲の名としてもよく知られている。この曲はロマ民謡「[[エデルレジ (曲)|エデルレジ]]」のカバー曲であり、[[ユーゴスラビア]]の[[ロック・バンド]]、[[ビイェロ・ドゥグメ]]([[:en:Bijelo dugme|Bijelo dugme]])によって[[1988年]]に発表された。この他に[[ゴラン・ブレゴヴィッチ]]によるものなども知られる
 
== 脚注 ==