「モンゴル・南宋戦争」の版間の差分

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そこでモンゴル帝国と南宋は協定を結びモンゴル軍は北還を開始したが、南宋政府は[[遼]]滅亡時と同じように[[中原]]回復という非現実的な目標を掲げ協定を破って[[洛陽市|洛陽]]・[[開封市|開封]]等の都市を奪回した。この行為は当然モンゴル帝国軍の激しい怒りを呼び南下が開始された。
 
一方、オゴデイ政権では東西への大遠征が企画されつつあり、[[バトゥ]]の西征と対になる形でオゴデイの第三子クチュを総大将とする南宋侵攻作戦が決定された。クチュはモンゴル軍伝統の三軍団方式をとり、西路軍は[[コデン]]が率い[[甘粛省|甘粛]]方面から、東路軍はカチウン家のアルダイチなどが[[山東省|山東]]方面から、そして中央軍は漢水流域を南下し大軍で南宋に攻め込んだ。しかし総大将であるクチュが開戦早々に不可解な急死を遂げ中央軍が後退してしまうと、モンゴル軍の指揮系統は混乱してしまい、諸軍がばらばらに南宋側の諸都市を攻撃することとなった。ここにおいて指揮系統の混乱したモンゴル軍はしばしば攻城戦を失敗し、前回のモンゴルと南宋との衝突でも活躍した孟珙が再び起用されると逆に南宋軍に押し込まれ、[[襄区|襄陽]]までをも失ってしまう。
 
== 顎州の役 ==
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[[オゴデイ]]死去以後第三代[[ハーン#モンゴル帝国のハーン|大ハーン]][[グユク]]とバトゥの対立などで一時、モンゴル帝国内で混乱が起こったが、[[モンケ]]が大ハーンに即位するとその混乱も収まり再びモンゴル帝国は東西への大遠征を企画し、モンケは実弟[[クビライ]]、[[フレグ]]にそれぞれ[[東アジア]]、[[西アジア]]の経略を委ねることを発表した。
 
[[1251年]]、クビライは金蓮川に入るとそこを本拠地とし南宋侵攻を計画した。まず手始めにクビライは南宋を包囲するため[[1253年]]に[[雲南・大理遠征]]で[[大理国]]を屈服させたものの以後は金蓮川から動かず[[高麗]]遠征、南宋侵攻の指揮を執り南宋の攻略に関しては長期戦に持ち込む構えをとった。しかし短期決戦を望むモンケはクビライの慎重策に不満を持ちクビライを更迭、タガチャルを起用した。しかしそのタガチャルも[[襄区|襄陽]]・[[樊城区|樊城]]を攻撃したものの何故かすぐに撤退を始めた。激怒したモンケは今度はタガチャルを更迭し、再びクビライを起用して自ら南宋侵攻に打って出るも各隊の連携がうまくいかず、モンケの軍のみが突出しすぎる形となり軍中にはやった疫病にかかり[[1259年]]モンケは軍中で死去した。
 
モンケの死によりモンゴル帝国の大ハーン位がクビライと[[アリクブケ]]の間で争われることとなったが、クビライは急いで北還することで配下の軍勢、特に漢人部隊が離散することを恐れ、逆に南下することで配下の軍勢を留めおいた。南下したクビライはモンゴル軍としては初めて長江を渡り顎州を包囲した(顎州の役)。