「甲斐親直」の版間の差分
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== 生涯 ==
[[1541年]]、[[島津氏]]に内通し阿蘇氏に反旗を翻した[[御船城]]主・[[御船房行]]を討伐し、その功によって[[御船城]]を与えられ、城主を務める。
[[1562年]]、宗運と号す。
宗運は北は[[大友氏]]、南は[[相良氏]]と同盟を結ぶことで阿蘇氏の独立を保った。
しかし大友氏が[[1578年]]に
[[1581年]]春、宗運は大友氏に見切りをつけ、龍造寺氏に臣従を誓う。9月、相良氏が島津氏の軍門に下る。島津氏はすぐさま当主・[[相良義陽]]に御船城攻略を命じる。
義陽は宗運と誓詞を交わした盟友であったが、肥後の国人衆を分断する目的であえて両者を争わせようとしたのである。
同年12月に義陽は阿蘇領に侵攻したが、宗運は[[響野原]]の本陣を奇襲し相良軍を撃破。義陽は戦死した([[響野原の戦い]])。義陽は島津氏と宗運との間で板挟みとなり、わざと敗北を招く布陣をしたといわれる。
相良氏との戦いには勝利したものの、阿蘇氏が相良氏の協力なしに島津氏と
[[1583年]]または[[1585年]]に病死。宗運の孫娘に毒殺されたという説もある。
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