「シロンスク公国」の版間の差分
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[[ファイル:TestamentKrzywoustego.png|thumb|right|250px|ボレスワフの息子たちによるポーランドの分割相続:
{{legend|pink|[[長子領]]、[[ヴィエルコポルスカ県|ヴィエルコポルスカ]]東部、[[マウォポルスカ県|マウォポルスカ]]、[[クヤヴィ]]西部、[[ウェンチツァ公国|ウェンチツァ地方]]および[[シェラツ公国|シェラツ地方]]からなる}}
{{legend|orange|[[シロンスク公国|シロンスク]]領、[[ヴワディスワフ2世
{{legend|lightblue|[[マゾフシェ公国|マゾフシェ]]領、[[ボレスワフ4世]]の分領}}
{{legend|green|[[ヴィエルコポルスカ公国|ヴィエルコポルスカ]]領、[[ミェシュコ3世]]の分領}}
{{legend|yellow|[[サンドミェシュ公国|サンドミェシュ]]領、[[ヘンリク (サンドミェシュ公)|ヘンリク]]の分領}}
{{legend|gray|[[ウェンチツァ公国|ウェンチツァ地方]]、[[ボレスワフ3世クシヴォウスティ|ボレスワフ3世]]の未亡人[[サロメア・ス・ベルグ|サロメア]]の寡婦領で、その死と同時に長子領に戻される}}
{{legend|lightgreen|[[ポメラニア|ポモジェ]]、長子領の支配者の封土}}]]
'''シロンスク公国'''または'''シュレージエン公国'''([[ポーランド語]]:Księstwo śląskie;[[ドイツ語]]:Herzogtum Schlesien)は、中世[[ポーランド王国|ポーランド]]の[[シレジア|シロンスク]]に存在した公国。[[1163年]]に創設されてまもなく、[[シロンスク公国群]]へと細かく分割される状況が生まれた。
== 概要 ==
[[ファイル:Silesia 1172-1177.jpg|thumb|left|200px|1172年 - 1177年のシロンスク]]
[[ファイル:Silesia 1177-1185.jpg|thumb|left|200px|1177年 - 1185年のシロンスク]]
当初は'''シロンスク地域'''([[ポーランド語]]:dzielnica śląska)と呼ばれた公国は1138年、[[ボレスワフ3世の遺言状]]によって[[ポーランド王国]]の5つの主要な地域の1つとして創設された。1138年から[[1146年]]にかけて、この地域は[[ポーランド君主一覧|ポーランド大公]][[ヴワディスワフ2世
ヴワディスワフ2世の息子
ポーランドの分裂期に、公国は世代交替が進むにつれて細かく分裂していった。公国群は[[14世紀]]には[[ボヘミア
[[1740年]]、[[プロイセン王国|プロイセン]]王[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]はオーストリア領シュレージエン(シロンスク)に侵攻し、[[18世紀]]後半まで続いた[[シュレージエン戦争]]の結果、この地域の多くをプロイセン領に併合した。旧公国群の大部分は後にプロイセン領[[シュレージエン州]]に再編され、オーストリア側に残った地域は1742年、[[オーストリア領シュレージエン]](高地・低地シュレージエン公国)とされた。ポーランド領内に残っていた公国群の一部は、18世紀末の[[ポーランド分割]]の結果、プロイセンとオーストリアに併合された。オーストリア領シュレージエンは[[1918年]]まで存続し、[[第
== 関連項目 ==
*[[シロンスク・ピャスト家]]
{{DEFAULTSORT:しろんすくこうこく}}
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