「長子領」の版間の差分
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[[画像:TestamentKrzywoustego.png|thumb|right|250px|ボレスワフの息子たちによるポーランドの分割相続:
{{legend|pink|[[長子領]]、[[ヴィエルコポルスカ県|ヴィエルコポルスカ]]東部、[[マウォポルスカ県|マウォポルスカ]]、[[クヤヴィ]]西部、[[ウェンチツァ公国|ウェンチツァ地方]]
{{legend|orange|[[シロンスク公国|シロンスク]]領、[[ヴワディスワフ2世
{{legend|lightblue|[[マゾフシェ公国|マゾフシェ]]領、[[ボレスワフ4世]]の分領}}
{{legend|green|[[ヴィエルコポルスカ公国|ヴィエルコポルスカ]]領、[[ミェシュコ3世]]の分領}}
{{legend|yellow|[[サンドミェシュ公国|サンドミェシュ]]領、[[ヘンリク (サンドミェシュ公)|ヘンリク]]の分領}}
{{legend|gray|[[ウェンチツァ公国|ウェンチツァ地方]]、[[ボレスワフ3世クシヴォウスティ|ボレスワフ3世]]の未亡人[[サロメア・ス・ベルグ|サロメア]]の寡婦領で、その死と同時に長子領に戻される}}
{{legend|lightgreen|[[ポメラニア|ポモジェ]]、長子領の支配者の封土}}]]
'''長子領'''([[ポーランド語]]:Dzielnica senioralna)または'''クラクフ公国'''は、[[ボレスワフ3世の遺言状]]によって[[1138年]]に成立したポーランド国家を構成する5つの地域の中で最も上位に位置づけられた地域。[[ピャスト家]]の諸公が[[番|輪番]]で支配する地域となり、クラクフ公国を領する公がポーランドの最高権威者(大公)となった。
== 概要 ==
遺言状では年長者相続の原則が採用され、王家の最長老「長子」(首位の公、[[プリンケプス]]、大公などと呼ばれた)が諸公たちの最高権威者(Dux)であり、ポーランドの真ん中を南北に走るように広がり、[[クラクフ]]を主都とする「長子領」([[ヴィエルコポルスカ県|ヴィエルコポルスカ]]東部、[[マウォポルスカ県|マウォポルスカ]]、[[クヤヴィ]]西部、[[ウェンチツァ公国|ウェンチツァ地方]]
歴代の大公は多くの場合、ピャスト家の一員である自らの出身家系から相続した分領公国を所有しており、彼が死ぬと世襲の分領公国は彼自身の息子が相続したが、クラクフ公国は王家中で生存する中での最長老者に譲られた。「長子」、つまりクラクフ公の地位は、その地位にあるものに相当な権限と利益をもたらすものであり、その職にある人物は自らをポーランドの諸公たちより高い身分におこうとした。
しかし「長子」体制は、その最初の「長子」であった[[ヴワディスワフ2世
クラクフ公国は、王家の伝統的な拠点であるクラクフの南に長く広がる地域から、ポーランドにおける教会の中心部である[[グニェズノ]]を意味していた。公国は本来、分領となった4地域([[マゾフシェ県|マゾフシェ]]、[[サンドミェシュ]]、[[シレジア|シロンスク]]、
== 歴代「長子」 ==
この一覧では称号のみを帯びていたものは数えず、クラクフを実際に統治していた者だけを数えている。
*
* 1138年 -
* 1146年 -
* 1173年 -
* 1177年 -
** 1190年
* 1194年 -
* 1199年 - 1202年
* 1201年
* 1202年
* 1202年 -
** 1202年 - レシェク1世(3度目)、ヴワディスワフ3世とクラクフをめぐり争う
* 1206年 -
** 1210年 -
* 1227年 -
* 1227年 -
* 1228年 -
** 1229年 -
* 1238年 -
* 1241年
** モンゴル(コンラトが4度目に公となるが、クラクフ支配はほぼ不可能)
* 1243年 -
* 1279年 -
* 1288年 -
* 1290年 -
** 1291年 - 1305年
** 1305年
* 1305年 - クヤヴィ公[[ヴワディスワフ1世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ4世]]、1320年に戴冠
== 関連項目 ==
* [[マウォポルスカ県|マウォポルスカ]]
{{DEFAULTSORT:ちようしりよう}}
[[Category:ポーランドの歴史 (966–1385)]]
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