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メッカ軍撤退後、ウフド山に篭って必死の抵抗を続けていたイスラム軍はムハンマドとともにメディナへと帰還した。この敗戦によってユダヤ教徒の叛乱が起きたが、ムハンマドのこれに対する処置は主立った者を財産を持ってメディナを退去させることのみに留めている。またこの敗戦によって若者が数多く死んだことで、メディナの防衛能力は低下していた。このためメッカ側は懸賞金をかけて遊牧民([[ベドウィン]])にメディナを襲撃させ、ムハンマドはこれへの対応にも悩まされることになった。また、追放されたユダヤ教徒が勢力を挽回してメディナを包囲するという事件も起きている。しかし、結果だけを見ればこれらの苦難はイスラムの結束力を高めるのに寄与しただけであった。
またこの時期になると、相次ぐ戦いによって夫を失った寡婦や娘たちがいた。これらの女性たちの法定後見人になった者たち中で、気に入った被後見の女性と婚資を払わずに結婚しようとしたり、財産の分配を恐れて他へ嫁がせないようにして孤児の財産を奪うような動きがあった。この時、啓示(クルアーン 婦人の章3節)が下されたが、その内容は気に入った女性を娶ってもかまわないが、婚資は同じように支払え、そして二人、三人、四人を娶っても良いが、同じ(平等)ように支払えないなら、現在の妻一人にせよというものであり、この啓示が、以後、イスラーム教徒の四人妻制限として適用されることになった。また預言者が四人を超える妻を持っていることに関する啓示(部族連合の章51~53章)が下ったが、預言者が現在娶っている妻について離縁するか、しないかを選択し、選択後は妻を変えたり、娶ったりできないとの内容で、啓示時期についてはヒジュラ暦8年説が多数説であることから、最終的に預言者が以後は妻を増やすことも、娶ることもできないとされた。アラブは一夫多妻であったことがクルアーンによって証明され、イスラームはそれを制限したと解釈される。
ムハンマド自身も後に2代目[[カリフ]]となる[[ウマル・イブン=ハッターブ|ウマル]]の娘[[ハフサ]]を娶っている。また自分の娘の[[ウンム・クルスーム]]を後の3代目カリフ[[ウスマーン・イブン=アッファーン|ウスマーン]]と、[[ファーティマ]]を後の4代目カリフ[[アリー・イブン・アビー=ターリブ|アリー]]と結婚させるなど一夫多妻の導入はアラブ敗戦によって一時的に低下したムハンマドの慣習であ指導力を婚姻によって強化することも容易にした。
[[Category:イスラム世界史|うふとのたたかい]]
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