「蘆名義広」の版間の差分

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==生涯==
天正7年([[1579年]])、[[小峰義親|白河義親]]の養子となるが、[[蘆名盛隆]]の子[[蘆名亀王丸|亀王丸]]が夭折したため、天正15年([[1587年]])、蘆名盛隆の娘と結婚して蘆名義広と名乗り、[[蘆名氏]]二十代を継承する。しかし幼少であったために蘆名家臣団を掌握することができず、天正17年([[1589年]])、[[伊達政宗]]との[[摺上原の戦い]]で大敗し、[[黒川城]]は落城、[[常陸国|常陸]]に逃れた。常陸に逃れる際随従した従者の数を、『会津史』は20人あまり、『会津合戦記』は女中を併せて119人と記述している。<ref>林哲「会津・芦名四代」(歴史春秋社)、267項</ref>

政宗が得た蘆名領は、[[豊臣秀吉]]により没収されたが、蘆名氏の再興は許されなかった。その後、秀吉から常陸[[江戸崎藩]]に4万5,000石を与えられる。盛重と名乗ったのはこの時期であると言われている。
 
[[慶長]]5年([[1600年]])、[[関ヶ原の戦い]]で兄の[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]が西軍に与したために所領を没収され、慶長7年([[1602年]])、実父義重・実兄義宣とともに[[久保田藩|秋田領]]に入り、名を義勝と改め、[[仙北郡]][[角館]]に1万6,000石を与えられた。
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寛永8年([[1631年]])、病死。
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 関連項目 ==