「田中清玄」の版間の差分

 
田中は三代目 [[山口組]]組長[[田岡一雄]]と仲がよかった。もとは田中の身元引受け人だった[[富田健治]]に、横浜で海運業をやっていた佐藤軍次を紹介され、その佐藤から京浜一帯の沖仲仕の総元締で大親分だった[[藤木幸太郎]]を紹介された。戦後の京浜地区は鶴見の埋立てをめぐって、土建業松尾組の[[松尾嘉右衛門]]と、藤木が対抗していた。藤木はのちに、[[日本海運協会]]、[[日本海運共同組合]]をつくる。藤木は日本海運協会会長に田岡を立てようとするが、田岡は固辞。このときに、田岡と田中は知り合い、田岡は政治は田中に任せ、自分はヤクザを取り仕切ると決めた<ref>『田中清玄自伝』</ref>。
1963年(昭和38年)3月の[[グランドパレス事件]]を経て、児玉と対立していた田岡は、反児玉派の田中とともに、児玉らの東亜同友会に対抗して、1963年(昭和38年)4月、[[市川房枝]]、[[福田恆存]]、[[山岡荘八]]、[[菅原通済]]らを立て、[[麻薬追放国土浄化同盟]]<ref>『田中清玄自伝』[[文藝春秋]]、1993年、P.373と[[溝口敦]]、[[笠井和弘]]、[[ももなり高]]『実録山口組四代目・竹中正久 荒らぶる獅子』[[竹書房]]、2003年、ISBN 4-8124-5811-0のP.158</ref>(後の全国国土浄化同盟)を作り、キャンペーンを行った。麻薬追放国土浄化同盟の総本部は、兵庫県神戸市中央区橘通の山口組本部に置かれた。当時マスコミは「山口組全国制覇のための巧妙なカムフラージュ」と書き立てたが、田中は「これだけ麻薬がはびこったのは、警察とジャーナリズムと、そして政治家の責任だと言いたい。世の中に悪いことをやっているのはごまんとおります。暴力団にも警察官にもおる。しかし一番許せないのは政治家だ。[[竹下登|竹下]][[金丸信|金丸]][[小沢一郎|小沢]]と、こういう連中に牛耳られた[[自民党]]の国会議員は、いったいどうなんだ」として後に反論している<ref>『田中清玄自伝』</ref>。結果、児玉誉士夫の東亜同友会構想は頓挫し、田岡一雄と[[稲川裕芳]]の対立は決定的となった。
*同1963年11月9日午後4時から、東京丸の内の東京會舘で、立教大学総長の松下正寿が発起人となって、評論家高谷覚蔵の出版記念祝賀会が開かれた。田中清玄は祝賀会に出席した。同日午後6時9分、出版記念祝賀会が終了し、田中が玄関前で、タクシーを待っていたところ、[[東声会]]組員・[[木下陸男]]に狙撃された([[田中清玄銃撃事件]])<ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/046/0526/04602180526002c.html 「国会会議録・第046回国会予算委員会第4分科会第2号」]
</ref>。3発の銃弾が腹部、右腕、右手首に命中して、田中は重傷を負い、[[聖路加病院]]に搬送。ウィスコンシン大学病院で銃撃された患者を6年間に数百人手術していたという医師[[牧野永城]]の手術を受け、一命を取り留める。{{Main|田中清玄銃撃事件}}
 
供述で木下は、「[[町井久之]]会長が、田岡一雄組長の弟分になったが、10月ごろ『田中清玄が三代目山口組を利用して関東やくざを撹乱しようとしている』との風評がたったため、町井久之会長が非常に苦しい立場追い込まれると思い、襲撃した」とのべ、丸の内警察署は背後関係を疑い、町井久之を銃砲刀剣類所持等取締法で別件逮捕した。だが、背後関係までは立件できず、町井は起訴されなかった。田中清玄は自伝で『木下陸男は、児玉誉士夫からの差し金で、金をもらってやった』と述べている。
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