「高輪談判」の版間の差分

明治2年1月7日、パークスの呼びかけでフランス・アメリカ・イタリア・ドイツの各国公使が相次いで新政府に対して「新政府(明治政府)が改税約書に違反した通貨を鋳造しているという噂があるために通貨の相場が暴落して商人たちが損害を受けている」として贋貨一掃のための措置を採る事を要求した。明治政府は突然の要求に驚いたが取りあえず外国官副知事の[[小松清廉]](帯刀・薩摩藩家老)に対応をさせようとした。ところが、その小松が病に倒れてしまった(翌年36歳で急死)ために、病床の小松が代役として推挙したのが[[肥前藩]]出身の[[大隈重信]]であった。
 
大隈は直ちに外国官副知事兼参与に任じられ、更に[[会計官]](後の[[大蔵省]])への出向(1月12日)が命じられたのである。だが、[[明治天皇]]の[[東京行幸]]を目前に控えて大隈は直ちに[[京都]]からパークスのいる[[横浜市|横浜]]に動くことは出来ず、大隈は外国官知事[[伊達宗城]]([[宇和島藩|前宇和島藩主]])らと協議の結果2月5日に内外に向けて近いうちに新貨幣を発行することを発表し、パークスには[[神奈川県知事]]を兼務していた外国官判事[[寺島宗則]]が宥めるように指示している。だが、これがパークスを怒らせて1月22日と2月21日に改めて政府に事情説明を求める書簡を送っている。そこで[[2月30日]]に伊達の名において各国公使に対して政府は現在の通貨(公式にはそれが改税約書違反の悪貨とは認めなかった)を今後は鋳造せずに新貨幣の準備が整うまでは[[太政官札]]で対応していくこと、太政官以外の組織・個人はたとえ諸侯であっても貨幣を鋳造するものは処罰の対象となることを通知したのである。だが、実際には当時([[版籍奉還]]以前)の明治政府は諸藩に対して命令を下す権限を持っておらず(従って明治政府の命令である[[太政官布告]]ではなく、要請に近い[[太政官達]]が出されていた)、特に薩摩・土佐両藩は「戦勝国」の立場を利用してその後も贋貨を鋳造続けたのである。また、会計官では[[不換紙幣]]としての太政官札の企画を推進してきた副知事の[[由利公正]]が従来の財政問題を巡る路線対立に加えて、外交問題から太政官札の位置付け変更に踏み込んだ通貨改革の流れに発展してきたことに対する不満から辞意を表明していた。更にこうした一連の遣り取りが内外に伝わると2月28日には横浜[[居留地]]の商人たちが会合を開いて明治政府に贋貨によって生じた損害賠償を求める事を決議し、更に一部の商人が今後の回収に期待して暴落した贋貨を買い占めるなど様々な思惑が動き出し始めていた。
 
3月18日に東京に入った大隈は各国公使と会談する一方で、贋貨整理案の策定を急いだ。その結果、太政官の許可を得次第、3月30日(末日)をもって「新通貨の発行決定・金札(太政官札)を[[正貨]]同様の通用(等価化)・金札相場の廃止」という第1弾の新方針を布告する準備が整うまでに至った。ところが、布告前日の29日になって太政官より反対論が出されて布告は中止されて、正式決定を前提として大阪に布告文を送付している途中であった[[飛脚]]が東京に呼び戻されることとなった。反対の中心人物は明治政府の実力者[[大久保利通]]であった。この日、大久保が[[岩倉具視]]に対して送った書簡に「町人という者は浅墓なものなので、少しお上がハキハキと申し付ければ、如何様にも従うものである。(要旨)」とあるように、商人は「お上」の命に唯々諾々と従う存在であるのだから、政治的基盤が未だ脆弱で「お上」としての権威を十分に持っているとは言えない明治政府が慌てて貨幣改革を行うことによって、万が一命令が行き渡らずに「お上」(=明治政府)に対する「万民の信」の無さと無力ぶりを内外に示すことになっては政権の崩壊につながると考え、通貨改革を不要不急のことと捉えていた。更に大久保は当時はまだ表にする事は避けていたものの、贋貨整理の過程で自分の出身である薩摩藩が秘かに贋貨を作っていた事実が内外に明らかになった時の反響を危惧していたのである。
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