「メクレンブルク=シュトレーリッツ」の版間の差分

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== 歴史 ==
1701年、旧メクレンブルク=ギュストロー{{enlink|Mecklenburg-Güstrow|a=on}}公国が存在した地域に新しくメクレンブルク=シュトレーリッツ公国が創設された。[[メクレンブルク家]]{{enlink|House of Mecklenburg|a=on}}の傍系であるギュストロー公爵家は1695年に最後の当主[[グスタフ・アドルフ (メクレンブルク公)|グスタフ・アドルフ]]が死ぬと同時に断絶し、その遺領は本家筋の[[メクレンブルク=シュヴェリーン]]公[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (メクレンブルク=シュヴェリーン公)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]]([[:de:Friedrich Wilhelm I. (Mecklenburg)|de]])が相続した。ところがフリードリヒ・ヴィルヘルムの叔父[[アドルフ・フリードリヒ2世 (メクレンブルク=シュトレーリッツ公)|アドルフ・フリードリヒ2世]]は亡くなったギュストロー公グスタフ・アドルフの娘マリーと結婚しており、娘婿としてギュストロー公国の相続権を主張して、甥と争うに至った。二人はギュストロー公国の跡目を巡って長く争っていたが、1701年3月8日に[[ニーダーザクセン・クライス]]{{enlink|Lower Saxon Circle|a=on}}の仲裁で妥協が成立し、アドルフ・フリードリヒ2世が義父の領国をメクレンブルク=シュトレーリッツ公国として獲得することになった。アドルフ・フリードリヒは[[ノイシュトレーリッツ|シュトレーリッツ]]{{enlink|Neustrelitz|a=on}}に居所を置いたものの、本家のメクレンブルク(=シュヴェリーン)公と同様に「メクレンブルク公」とだけ称した。
 
シュトレーリッツ公国は[[神聖ローマ帝国]]で最も発展の立ち遅れた地域の一つであったが、公爵家の娘たちは次々に良縁を見つけてきた。[[アドルフ・フリードリヒ4世 (メクレンブルク=シュトレーリッツ公)|アドルフ・フリードリヒ4世]]の妹[[シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ|シャルロッテ]]は[[イギリス君主一覧|イギリス王]][[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の妃となり、アドルフ・フリードリヒ4世の弟[[カール2世 (メクレンブルク=シュトレーリッツ大公)|カール2世]]の娘[[ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ|ルイーゼ]]は[[プロイセン国王|プロイセン王]][[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]の妃となった。
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== メクレンブルク=シュトレーリッツの統治者 ==
{{see also|ブランデンブルク統治者の一覧}}
 
=== メクレンブルク=シュトレーリッツ公(1701年 - 1815年) ===
*[[アドルフ・フリードリヒ2世 (メクレンブルク=シュトレーリッツ公)|アドルフ・フリードリヒ2世]](在位:1701年 - 1708年)