「鈴木三樹三郎」の版間の差分

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*[[1852年]]、父忠明の死後、三樹三郎は16歳で私塾を主宰した。しかし、授業を疎かにしたうえ、「楠多聞丸」と大書した旗を掲げて合戦の真似事ばかりした結果、塾生は減り、やがて私塾は閉鎖するに至った。
*新選組の九番組長をつとめたが、のちに降格している。学問や弁舌に優れていたものの、丁寧な性格が災いしたと伝えられる。
*高台寺党御陵衛士生きが[[伏見]]黒染周辺で[[近藤勇]]を襲撃するが、三樹三郎が参加していたかどうかは不明である。
 
== 関連項目 ==