「田中清玄」の版間の差分

==生涯==
===少年期===
*1906年(明治39年)3月5日、[[北海道]][[亀田郡]]七飯村(現[[七飯町]])で田中 清玄が出生。清玄は後年も会津の血を引いていることを誇りにしていた。
*1919年(大正8年)4月、[[北海道函館中部高等学校|旧制函館中学]]に入学。[[亀井勝一郎]] や[[今日出海]]や[[大野一雄]]とは同級生だった。上級生には「丹下左膳」を書いた[[長谷川海太郎]]やその弟の[[長谷川四郎]]、海太郎の従兄弟の[[久生十蘭]]がいた。
*1924年(大正13年)4月、[[弘前高等学校 (旧制)|旧制弘前高校]]入学。翌1925年(大正14年)、小樽高商軍事教練を廃止をめぐる[[小樽高商軍教事件]]が起きた<ref>[http://www.hup.gr.jp/details/ISBN4-8329-3341-8.htm]</ref>。田中清玄は弘前で廃止を訴えるビラをまき、最初の政治活動を経験。このあと、仙台にある[[東北帝國大學]]の[[島木健作]]・[[玉城肇]]・[[鈴木安蔵]]を中心に[[東北学連]]がつくられ、[[水戸高等学校 (旧制)|水戸高]]の[[宇都宮徳馬]]・[[水田三喜男]]、[[第二高等学校 (旧制)|二高]]から[[島野武]]・[[高野信]]、[[山形高等学校_(旧制)|山形高]]から亀井勝一郎・[[小林多喜二]]らが集まった。清玄は島野武や[[宇都宮徳馬]]と親しくする。宇都宮はのちに[[ミノファーゲン製薬]]を創業、衆議院議員、参議院議員をつとめた。田中は後年、「宇都宮は事業的にも思想的にも天才で、ずいぶん厄介になった。親父は[[宇都宮太郎]]という[[陸軍大将]]で、親父の副官がしょっちゅう来ているから情報が入るんだ。[[日中友好協会]]なんかは彼のお陰です」と回想している。また、田中はその後、青森県津軽の[[車力村]]という農村で[[車力農民組合]]を[[淡谷悠蔵]]<ref>淡谷は[[淡谷のり子]]の叔父。[http://www.plib.net.pref.aomori.jp/top/museum/awaya_shougai.html]</ref>や[[大沢久明]]らと一緒につくったり、[[鈴木治亮]]や[[沼山松蔵]](のちのクロレラ会社重役)と北海道に於ける最初の労働組合[[函館合同労働組合]]を創設したりもした。
 
===共産党闘士時代===
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