「田中清玄」の版間の差分

 
===共産党闘士時代===
*1927年(昭和2年)4月、[[東京帝国大学]]入学。亀井勝一郎とともに[[新人会]]入会<ref>新人会は[[吉野作造]]の指導のもとに[[麻生久]]・[[宮崎龍介]]がつくった運動団体</ref>、[[島野武]](のち仙台市長)・[[大山岩雄]]・[[佐多忠隆]]・[[田中稔男]]・[[武田麟太郎]]・[[藤沢恒夫]]、[[大宅壮一]]とであう。清玄はのち大宅にも世話になり、[[大宅文庫]]設立のときに拠出金を出した。同年9月、日本共産党入党。[[パルタイナーメ]]([[党員名]])は山岡鉄夫([[山岡鉄舟]]にちなむ)。空手部にも入部。[[渡辺政之輔]]からオルグの指導を受け、東京の第3地区委員長になる。昭和4年東大文学部中退。
*1928年の[[三・一五事件]]、1929年(昭和4年)の [[四・一六事件]]による党指導部の崩壊をうけ、モスクワから帰った[[佐野博]]と田中清玄と[[前納善四郎]](東京合同労組フラクション)が指導部を構成し、同年7月頃党を再建する。これ以降、通称「武装」共産党と呼ばれる<ref>[http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kuromakuron/busokyosantoco.htm]</ref>。
*1930年(昭和5年)1月、和歌山二里ケ浜で日本共産党再建大会。玄はこれをきっかけに、[[コミンテルン]]国際連絡機関で中国共産党を経由した[[オムス]]のルートをつかって、資金・情報収集を始め、コミンテルン執行委員会書記長[[オットー・クーシネン]]、四年コミンテルン極東部長[[カール・ヤンソン]]とも連絡をつける。[[野坂参三]]をモスクワに派遣するが、野坂は[[ウラジオストック]]で検挙される。資金を得た田中は、党の武装化を進め、[[川崎武装メーデー事件|川崎武装メーデー]]、東京市電争議の際における幹部暗殺計画、車庫放火事件、中央メーデー暴動化、小銃弾薬類の略奪計画など数多くの武装事件を既遂未遂し、「'''[[武装共産党]]'''」と称された<ref>[http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kuromakuron/busokyosantoco.htm]</ref>。
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