「田中清玄」の版間の差分

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*1941年(昭和16年)4月29日、10年1ヶ月の刑期を終え出所。身元引受け人は[[内務省 (日本)|内務省]][[警保局長]][[富田健治]]。田中は明治神宮と皇居を拝したのち、5月1日に三島の[[龍沢寺]]の[[山本玄峰]]を訪ね、「自分の本当のルーツを発見して、マルクス主義や惟神(かんながら)の道などという狭隘で一神教的な道ではない、自分の本当に進むべき道を発見したい」と頼んだ<ref>田中自伝</ref>。[[五・一五事件]]の法廷で[[井上日召]]の特別弁護人を引き受けたこともある山本玄峰は、刑務所で田中に法話をしていた。田中に山本を紹介したのは[[血盟団事件]]に連座した[[四元義隆]]だった。ほか、龍沢寺には、[[鈴木貫太郎]]、[[米内光政]]、[[吉田茂]]、[[安倍能成]]、[[伊沢多喜男]]、[[岡田啓介]]、[[迫水久常]]、[[岩波茂雄]]ら多くの人士が出入りし、多くが軍部を批判していたという。また玄峰は谷中の全生庵でも法話を行い、三井の[[池田成彬]]や侍従の[[入江相政]]らも訪れた。迫水久常は[[東条英機]]が老師に会いたがっていると言ってきたが、老師はその必要はないと断ったという。田中は玄峰の秘書・用心棒を勤めた。 
 
*また1941年井上日召が海軍の 三上卓、四元義隆、菱沼五郎らと「[[ひもろぎ塾]]」を設立し[[近衛文麿]]前首相のブレーンとして活躍するが、この塾に田中も入塾している<ref>堀幸雄「右翼辞典」柏書房2006年</ref>。1944年、土木請負や造船業を始め<ref>堀幸雄「右翼辞典」柏書房2006年</ref>、のちの神中組の基礎をつくる。陸軍主導で作られた軍需国策会社であった[[昭和通商]]にも友人がおり、関係があった。
 
*1945年(昭和20年)1月、玄峰は公案に「日本をどうするか」を出した。清玄が「戦争をとめるしかありません」と言うと、「だめだ、練り直してこい」と却下。三日たっても答えられないでいると、「無条件で戦争に負けることじゃ」と怒鳴られた。本土決戦や聖戦完遂は、我執にとらわれているという。これで清玄は国を救う決意がかたまり、神中組という結社をつくる。また終戦工作に加担する。田中清玄は枢密顧問官の[[伊沢多喜男]]に相談。3月25日、赤阪で山本玄峰は[[鈴木貫太郎]]と会談、「事態を収拾できるのはあなただ」と言った。やがて鈴木に終戦内閣の大命が下り、日本はポツダム宣言を受諾した。