「草加宿」の版間の差分

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== 概要 ==
草加宿は[[日光街道]]および[[奥州街道]]の[[江戸]]・[[日本橋 (東京都中央区)#日本橋(橋梁)|日本橋]]から数えて2番目の宿場である。[[慶長]]6年([[1601年]])に江戸に幕府を建てた[[徳川家康]]によって整備された。当時、この一帯の街道筋は沼地が多かったため、これを迂回し花俣(現在の東京都[[足立区]][[花畑 (足立区)|花畑]])から八条([[八潮市]])に出て[[古利根川]]と[[元荒川]]の自然堤防に沿って越ケ谷に至る経路を取っていた。慶長11年(1606年)になって、[[大川図書]](ずしょ)が先頭に立ち、現在の旧街道筋にあたる低湿地を土、柳の木、葦などの草で埋め固め、千住-越ヶ谷間をほぼ一直線に結ぶ新往還道を築き上げた。この新道の工事の完成に当時の将軍徳川秀忠は大いに喜び、「草を以て沼をうづめ、往還の心安すきこと、これひとえに草の大功(たいこう)なり。このところ草加といふべし」との上意があった。これが「草加」という地名の由来と言われる。当時、千住 - 越ヶ谷間には宿場が無かったが、このルートが完成すると街道沿いに茶店や旅籠屋など旅人相手の商いを目指す人々が集るようになり、[[寛永]]7年([[1630年]])に草加は千住宿に次ぐ2番目の宿、千住宿と越ヶ谷宿の「間(あい)の宿」として取り立てられることになった。
 
開宿当初、家数は84軒、宿延長は685間、伝馬人足25人、駅馬25頭と小規模であったが、徐々に人口が増え、[[正徳 (日本)|正徳]]3年([[1713年]])、草加宿総鎮守として市神(神明宮)が建てられると五・十の六斎市が開かれるようになり、近郷商圏の中心としても繁栄するようになった。このころから[[享保]]年間([[1716年]]-[[1736年]])にかけて急速に発達し、[[天保]]14年([[1843年]])調査の『宿村大概帳』によると、南北12町(約1.3km)の規模となり、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠67軒(大2、中30、小35)、人口3,619人であった。これは、同じ日光道中の宿場のうち、城下町に併設されていた[[宇都宮宿]]と[[古河宿]]を除けば、[[千住宿]]、[[越ヶ谷宿]]、[[幸手宿]]に次ぐ規模であった。