「ジョセフ・P・ケネディ・ジュニア」の版間の差分

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[[ファイル:Lt. Joseph P. Kennedy, Jr. Navy.JPG|thumb|Joseph P. Kennedy Jr.]]
'''ジョセフ・P・ケネディ・ジュニア'''(Joseph Patrick Kennedy ,Jr.、1915年7月25日-1944年8月12日)は[[ジョセフ・P・ケネディ]]の長男。[[マサチューセッツ州]]ハル出身。[[チョート高校]]卒。駐イギリス大使となった父の依頼で[[スペイン]]、[[ドイツ]]に赴く。1941年、[[ハーバード大学]][[ロースクール]]2年の時、海軍パイロット増員計画に応募。[[太平洋戦争]]開戦時、[[フロリダ]]・[[ジャクソンビル海軍基地]]で訓練中。12月9日、単独飛行。1942年、[[ウィング・マーク]]取得 海軍予備少尉に任官。飛行艇パイロットとして[[大西洋]]、[[カリブ海]]で対潜哨戒任務。教官配置。1943年7月、VB-110飛行隊に配属。[[イギリス]]、[[ウェールズ]]南岸ダンクスウエル基地に駐屯、PB4Yで[[ビスケー湾]]の対潜哨戒任務につく。1944年、ロンドン大使館付海軍武官補佐官の任務を断る。飛行隊隊長ナイト中佐から特別任務参加の打診を受け、即座に志願。V-1号兵器基地撃滅作戦「アフロディテ」に参加 トルペックス火薬12トンを搭載したPB4Yの操縦を担当(このPB4Yは離陸後乗員を脱出させ、無線誘導で目標まで誘導される)。8月2日、[[ロンドン]]北東ファーストフィールド基地で訓練開始。8月12日午後3時、本部で攻撃の最終打ち合わせ。目標として[[カレー]]南方ミモイクのV-1[[ブンカー]]を指定される(このブンカーはすでに爆撃で破壊され、使用中のように偽装されていた)。打ち合わせの、ロンドンの友人ハーストに電話し、帰ってこなかった場合の父への伝言を頼んだ。無線機実験部隊隊長スミス中佐と握手してからトルペックス火薬374箱を搭載したPB4Y T-11号機に乗り込む。午後3時52分離陸。午後6時20分、イギリス南部[[ニューデライトウッド]]上空で乗機爆発。副操縦士ウィルフォード・ウイリー中尉と共に戦死。戦死時、海軍大尉。[[ジェームズ・フォレスタル]]海軍長官は1時間以内に事故の報告を受け、ハイアニスポートの別荘で静養中のケネディ夫妻への通報を指示。8月13日、[[ボストン]]海軍区付オレリア神父がケネディ家へ赴き、両親に「行方不明」を伝える(この時、負傷して海軍病院に入っていた弟の[[ジョン・F・ケネディ]]も帰宅中。妹[[キャスリーン・ケネディ]]も夫が出征中で実家に戻っていた)。1963年、特別任務の内容が公表された。