「大熊清」の版間の差分

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|愛称=熊
|カタカナ表記=オオクマ キヨシ
|アルファベット表記=OHKUMAOKUMA Kiyoshi
|原語名=
|原語表記=
|国={{JPN}}
|誕生日={{生年月日と年齢|1964|6|21}}
|出身地=[[埼玉県]][[浦和市]]<br>(現[[さいたま市]][[緑区 (さいたま市)|緑区]])
|身長=178cm<ref name="JSL91-92">『1991-1992JSLイヤーブック』p84</ref>
|身長=178cm
|体重=75kg74kg<ref name="JSL91-92"/>
|血液型=B型
|所属チーム名=
|出場(得点)=
|クラブ成績更新日=2008年4月13日
|代表国=
|代表年=
|代表出場(得点)=
|代表成績更新日=
|監督チーム=東京ガス / [[FC東京]]<br />ユース日本代表<br />FC東京
|監督年=1995-2001<br />2002-2005<br />2010-
 
== 経歴 ==
[[1980年]]に[[さいたま市立浦和南高等学校|浦和市立南高等学校]]入学し、3年次の[[1983年]]1月に開催された[[全国高等学校サッカー選手権大会]]においてベスト8になる。[[中央大学]]を経て[[1987年]]に[[東京瓦斯|東京ガス]]に入社し、同社のトボルクラブである[[FC東京|東京ガスFCサッカー部]]に所属した。[[1991年]]にチームは[[日本サッカーリーグ]]2部に昇格し、さらに[[1992年]]には[[ジャパンフットボールリーグ]]1部に移行した。このシーズン途中に入団した[[アマラオ]]と共にプレーし、同年を最後に引退した。
 
[[1993年]]から東京ガスに籍を置いたまま、母校の中央大学サッカー部でコーチを務めた。[[1994年]]には[[鳥原光憲]]によって東京ガスサッカー部に呼び戻され、[[今井敏明]]監督の下でコーチを務めた。同年末の[[天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]から代行として指揮をとった。
 
[[1995年]]に正式に東京ガスFC監督に就任。[[1997年]]の天皇杯で[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]3チームを破ってベスト4に進出するなど優れた成績を収めた。[[1999年]]にはクラブが[[FC東京]]としてプロ化し、Jリーグ2部に参加。東京ガス社員(正式には東京ガスからの[[出向]]扱い)のままプロクラブの指揮を執り、同リーグ2位で翌年からの1部昇格を実現させた。[[2000年]]4月にはFC東京のJ1昇格1シーズン目の序盤で首位を維持した快進撃が認められ、[[アジアサッカー連盟]](AFC)3月度月間最優秀監督賞を受賞した。これは当時Jリーグクラブの監督としては5人目、日本人に限ると3人目の快挙だった。[[2001年]]シーズン限りでFC東京監督を退任した。後任監督には[[原博実]]が任命され、自らは強化部長代理に就任した。
 
[[2002年]]に[[日本サッカー協会]]技術委員に、さらに同年8月にはU-19(1919歳以下[[U-20サッカー日本代表|U-19日本代表]]監督に就任した。[[小林大悟]]、[[角田誠]]を抜擢し10月に[[カタール]]で開催された[[AFC U-19選手権|AFCユース選手権]]で準優勝、さらに翌[[2003年]]11から12月にかけて[[アラブ首長国連邦|UAE]]で開催された[[FIFA U-20ワールドカップ|FIFAワールドユース選手権]]では[[U-20サッカー日本代表|U-20日本代表]]を指揮し[[坂田大輔]]などの活躍によりベスト8に進出した。
 
[[2004年]]9から10月に[[マレーシア]]で開催されたAFCユース選手権では3位、さらに[[2005年]]6月に[[オランダ]]で開催されたワールドユース選手権でふたたびU-20日本代表を指揮した。未勝利ながらグループリーグを突破したものの、決勝トーナメント1回戦でモロッコに敗れこの大会を持ってユース代表監督を退任し、FC東京に強化部長代理として復帰した。
[[2006年]]7月に[[イヴィチャ・オシム]]監督の元でサッカー日本代表コーチに就任。オシムの退任後に就任した岡田武史監督の元でも引き続きコーチを務め、2010年に南アフリカで開催された[[2010 FIFAワールドカップ]]後に退任した。
 
2010年9月19日、[[城福浩]]前監督の解任に伴い、[[Jリーグ ディビジョン2|J2]]降格圏に低迷していたFC東京の監督に9年ぶりに復帰<ref>[http://www.fctokyo.co.jp/home/index.phtml?cont=item&item=10118 大熊清氏 監督就任のお知らせ] FC東京ニュースヘッドライン 2010年9月19日付</ref>。優勝した[[名古屋グランパスエイト|名古屋グランパス]]に勝利するなどチームを立て直したが、最終節に敗れてJ2降格を喫した。
 
2011年も引き続きFC東京の監督を務める。
 
== その他 ==
* 守備を基本として、カウンターと[[フォワード (サッカー)|FW]]の高さを生かすという戦術を好んでいる。
* スカウティング能力に長けている。また先に挙げたように、粘強い全員守備とカウンター、そして豊富な運動量をベースにしたサッカーを一貫して採用し、これをチームの個性として植え付けた。
* 東京ガスFC監督時代は[[国立西が丘サッカー場|西が丘サッカー場]]や[[江戸川区陸上競技場]]のバックスタンドの観客席までよく通る大声の指示で有名で知られていた。2002年のAFCアジアユースでは、観客の少ない閑散とした会場に響き渡る「サンキュー[[坂田大輔|坂田]]! サンキューな!」「[[茂木弘人|茂木]]!茂木!茂木がんばれ茂木!」という声が集音マイクに拾われ、全国的にも大声が知られるようになった。さらに2006年のA代表コーチ就任に伴い、サッカーファンを越えて広く認知されるに至る。
|[[1991年-1992年のJSL|1991-92]]||東京ガス||3||[[日本サッカーリーグ|JSL2部]]||6||0||0||0||||||||
|-
|[[1992年のJFL|1992]]||東京ガス||||[[ジャパンフットボールリーグ|旧JFL1部J1]]||||||colspan="2"|-||||||||
|-
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算始|3|日本|JSL2部}}6||0||0||0||||||||
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算行|日本|旧JFL1部JFL}}||||colspan="2"|-||||||||
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算行|日本|関東}}||||colspan="2"|-||||||||
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算終}}||||||||||||||
|}
 
== 経歴 ==
* JSL(2部)初出場:1991年9月8日 対[[川崎製鉄水島サッカー部|川崎製鉄]]戦([[岡山県総合グラウンド陸上競技場|岡山県営陸上競技場]])
 
== 監督成績 ==
|[[1998年のJFL|1998]]||旧JFL||東京ガス||'''優勝'''||30 ||69||24 ||-||6||-||3回戦敗退
|-
|[[1999年のJリーグ|1999]]||[[日本プロサッカーJリーグ ディビジョン2|J2]]||[[FC東京]]||準優勝||36||64||21||3 ||12 ||ベスト4||4回戦敗退
|-
|[[2000年のJリーグ|2000]]||[[日本プロサッカーJリーグ ディビジョン1|J1]]||FC東京||7位||30||43||15 ||1 ||14 ||2回戦敗退||3回戦敗退
|-
|[[2001年のJリーグ|2001]]||J1||FC東京||8位||30||41||13 ||5 ||12 ||2回戦敗退||3回戦敗退