「ミゲル・イダルゴ」の版間の差分

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==生涯==
[[1753年]]、メキシコの[[グアナフアト州]]に位置する[[ペンハモ]]([[:w:Pénjamo|Pénjamo]])近くの農場でその管理人の長男として生まれた。いわゆる[[クリオーリョ]](植民地生まれの白人)である。同農場で教育を受けたあと、1765年からこの地域で最も大きな都市であるバジャドリッド(現[[モレリア]]:[[ミチョアカン州]])に移り、最初はイエズス会経営の聖フランシスコ・ザビエル校、イエズス会追放後は聖ニコラス校で神学を中心に学んだ。1778年に[[司祭]]の資格を獲得したあとも、母校の聖ニコラス校で教鞭をとり、1790年には同校の学長となり、高等教育の改革に尽力した。

その後、1792年に学長を辞し、周辺地域で教区司祭を努め、先住民の生活向上などに尽力していた彼は、[[1810年]]9月、グアナフアト近くの[[ドロレス・イダルゴ|ドロレス]]で有名な「ガチュピン(スペイン出身の白人の蔑称)に死を!」の演説を行い(「[[ドロレスの叫び]]」)、宗主国[[スペイン]]に対し独立闘争を起こした。とはいえ、メキシコのクリオーリョはスペイン本国とのつながりが深かったため、革命に否定的な者も多かった。そのため、イダルゴに賛同したのは先住民や[[メスティソ]](メスティーソ)が多かった。
 
独立闘争の途中で、イダルゴは[[人頭税]]の廃止、[[奴隷]]制度の廃止、土地改革などの急進的な要求を掲げた。また、グアナフアト攻略に際して富裕層の虐殺が発生するなど、その運動は過激化していったため、独立闘争への支持は限定的だった。そうしていくうちに味方の[[:w:Ignacio Allende|イグナシオ・アジェンデ]]と意見が食い違い、[[メキシコシティ]]の攻略に失敗してからは劣勢に陥り、イダルゴは[[アメリカ合衆国]]への逃亡を図った。しかし、[[1811年]]にスペイン側に逮捕され、[[チワワ (チワワ州)|チワワ]]でアジェンデら3人の同志と共に[[銃殺刑]]に処され、晒し首にされた。