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== 人物 ==
寛永18年8月に[[徳川家綱]]の側近として中奥[[小姓]]、[[小姓組番頭]]寛文7年正月には御側などを務めたほか、延宝7年に若年寄、天和2年い[[奏者番]]、貞享4年に大坂城代、元禄3年に京都所司代などの要職も歴任した。長らく[[雑兵物語]]の作者に擬せられてきたが、実際の作者は不詳である。元禄4年(1691年)没、後を養子の輝貞が継いだ。
 
信興には実子がなく家督は兄輝綱六男の輝定が継ぎ、最終的には[[上野国]][[高崎藩]]主として幕末を迎える。
 
== 経歴 ==
*[[寛文]]2年([[1662年]])4月18日、兄[[松平輝綱|輝綱]]より、父信綱の遺領武蔵国埼玉郡のうち新田五千石を分与される。
*[[延宝]]7年([[1679年]])7月10日、若年寄に任ぜられる。1万2千石を領し、大名に列する。
*[[天和 (日本)|天和]]2年([[1682年]])2月19日、2万2千石をもって[[土浦藩]]主となる。
*[[貞享]]4年([[1687年]])10月13日、1万石を加増され大坂城代となり、[[摂津国]]・[[河内国]]内へ移封。
*元禄3年([[1690年]])12月26日、従四位下・侍従となり、京都所司代に転ずる。
 
== 関連項目 ==
* [[山本菅助]]:「山本菅助」は[[市河家文書]]や真下家文書に見られる戦国期の武田家臣で、『[[甲陽軍鑑]]』に登場する山本勘助に比定される可能性が考えられている。江戸時代には「菅助」を襲名した[[武田遺臣]]の山本家子孫がいる。「菅助」子孫は『甲陽軍鑑』における山本勘助を先祖と位置づけ徳川家に仕官し、信興家中には淀藩主[[永井氏]]から転身した「菅助」子孫がおり、軍学者として兵法指南や城郭改修などを行っている。
 
{{土浦藩主|大河内松平氏||1682 - 1687}}