「醍醐の花見」の版間の差分

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宴会の席では、正室である北政所の次に杯を受けるのを淀殿と松の丸殿が争い、まつがその場をうまく取りおさめたという話が伝わっている。
 
この花見で詠まれた[[短冊|和歌の短冊]]は今も三宝院に保管されている。
 
[[応仁の乱|応仁・文明の乱]]のあと荒れ果てていた醍醐寺を復興した中興の祖、第80代[[座主]]である[[義演]][[准后]]は、豊臣秀吉の[[帰依]]を得て良好な関係を築いていたが、秀吉の最期が近いことを感じ取り、一代の華美な英雄の最後にふさわしい大舞台をしつらえるために、あちこちにそれとなく手配をしてこの醍醐の花見を催させたともいう。秀吉はこの約半年後に没する。
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