「内モンゴル独立運動」の版間の差分

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=== 満州国・蒙古連合自治政府 ===
[[1932年]]に[[清朝]]皇帝であった[[溥儀]]が[[関東軍]]の協力のもとで'''[[満州国]]'''を建国した。これにより内モンゴル東部は満州国となった。満洲国では清王朝以来続く満洲・モンゴルの友好血縁関係からモンゴル人は積極的に満州国皇帝に仕えた。内モンゴルの中部では[[デムチュクドンロブ]](徳王)や[[ユンデン・ワンチュク]](雲王)などの王族によって自治要求運動がなされるようになり、[[1936年]]には自治を求める[[内モンゴル軍]]([[:ru:Национальная армия Мэнцзяна|ru]])と中華民国軍とが全面衝突した([[綏遠事件]])。[[1939年]]、デムチュクドンロブは日本の支援を受けて'''[[蒙古連合自治政府]]'''を樹立し内モンゴルにモンゴル人による自治政府が誕生した。満州国と蒙古連合自治政府はそれぞれ独自の行政機関・軍事組織・通貨をもつなど中国本土とは完全に分離した政治経済体制であった。[[1941年]][[4月13日]]、[[日ソ中立条約]]が[[ソビエト]]と[[日本]]の間で締結され、[[満州国]](内モンゴル東部)と[[モンゴル人民共和国]](外モンゴル)の領土保全と相互不可侵を約束した共同声明が出された<ref>{{cite web
| url = http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPRU/19410413.D1J.html
| title = 日ソ中立条約,声明書
| author = [[酒井信彦]]
| work = 日本外交主要文書・年表(1),52頁
| publisher = 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室
| date = 1941年4月13日
| accessdate = 2011-01-09
}}<br>「大日本帝国政府及「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦政府ハ千九百四十一年四月十三日大日本帝国及「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦間ニ締結セラレタル中立条約ノ精神ニ基キ両国間ノ平和及友好ノ関係ヲ保障スル為大日本帝国カ蒙古人民共和国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スルコトヲ約スル旨又「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦カ満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スルコトヲ約スル旨厳粛ニ声明ス」</ref>。
 
[[1945年]][[8月9日]]に突如としてソビエト軍が[[満州国]]と内モンゴルに侵略してきたことによって[[満州国]]・[[蒙古連合自治政府]]は崩壊した。内モンゴル東部はソビエト軍の占領下におかれ、それを引き継いだ中国共産党の支配下に入った。内モンゴル中部は、終戦日を過ぎてもソビエト兵から難民を守るために[[根本博]][[中将]]揮下の[[駐蒙軍]]が[[8月21日]]までソビエト軍の進撃を食い止めた後、中華民国軍に引き渡したことによって中華民国政府の支配下に入った。