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'''本村 信吾'''(もとむら しんご、[[1963年]][[8月3日]] - )は、[[宮崎県]]出身の元[[プロ野球選手]]([[外野手]])。
 
== 概要来歴・人物 ==
[[都城高等学校|都城高]]から[[熊本鉄道管理局]]を経て、[[1986年]]にドラフト6位で[[中日ドラゴンズ|中日]]入団した。[[1988年]]11月には[[片平哲也]]と共に、[[片岡光宏]]・[[斎藤浩行]]との2対2の交換で[[広島東洋カープ|広島]]に移籍し、翌[[1989年]]には一軍初出場を果たした。
[[1990年]]6月には[[榊原聡一郎]]と共に、[[西清孝]]・[[松井隆昌]]との2対2の交換で[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]に移籍し、外野の守備固めを中心に自己最高の38試合に出場したが、[[1991年]]12月に戦力外同球団のドラフト10人指名の余波を受け[[大塚賢一]]、[[山田武史]]とともに保留選手名簿に記載されたにもかかわらず解雇通告を受け退団した。本村は提訴し参稼報酬同額の補償裁定(1991年の年俸と同額)を勝ち取り、同じく山田は参稼報酬の9割相当額(1991年の年俸の9割)で和解が成立しているが、大塚は現役続行を希望し広島のテストを受け合格し入団した。
 
現在は[[昭和コンクリート工業]]勤務の傍らで、社会人クラブチーム[[宮崎ゴールデンゴールズ]]コーチをし、[[ボーイズリーグ]](中学生のための硬式野球リーグ)のチーム、小林ボーイズの監督もしている。
 
== エピソード ==
*ダイエー時代の1991年12月、同球団のドラフト10人指名の余波を受け[[大塚賢一]]、[[山田武史]]とともに保留選手名簿に記載されたにもかかわらず解雇通告を受けた。本村は提訴し参稼報酬同額の補償裁定(1991年の年俸と同額)を勝ち取り、同じく山田は参稼報酬の9割相当額(1991年の年俸の9割)で和解が成立しているが、大塚は現役続行を希望し広島のテストを受け合格し入団した。
 
== 詳細情報 ==