「二ヶ領用水」の版間の差分

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*[[1611年]](慶長16年):'''二ヶ領用水'''完成。[[橘樹郡]]北部(稲毛領37ヶ村・川崎領23ヶ村、約二千[[町歩]])の広範にわたって水路が巡らされ、この地域では二ヶ領用水により潤されて新田開発が進み、「稲毛米」と呼ばれる上質な米を産した。
*[[1629年]](寛永6年):宿河原取水口および宿河原用水が完成。引水量が増加し、米の生産量を大幅に増加させた。宿河原用水は[[代官]][[伊奈忠克|伊奈半左衛門]]の[[手代]]・筧助兵衛により造られた。
*[[17941724年]](享保9年):[[田中丘隅]](たなかきゅうぐ)により全面改修。
*[[1821年]](文政4年)[[7月6日]]:「溝口水騒動」(みぞのくちみずそうどう)が起こる。この年の夏は[[旱魃]]になり、当用水下流・大師河原の農民が中流・[[溝口 (川崎市)|溝口]]の丸屋を襲撃した事件。二ヶ領用水が運ぶ水は当時盛んであった稲作にとって生命線であり、このような水にまつわる大小さまざまな騒動が起きていた。
*[[1871年]](明治4年):[[横浜水道会社]]が設立され、二ヶ領用水からの取水施設敷設工事を開始。当組合は当初は民間で設立されたが、後に[[神奈川県]]へと引き継がれ、[[1877年]](明治10年)に竣工する。後に事業を引き継ぐ[[横浜市|横浜]]水道が[[道志川]]からの取水を始める[[1887年]](明治20年)まで、水道原水を二ヶ領用水から取水している。