「河東の乱」の版間の差分

(節分け、参考文献他加筆)
9月初旬には、今川軍に武田軍が合流し、この連合軍の攻撃に押された北条軍は、[[吉原城]]を放棄し三島に退却。9月16日に吉原城は自落する。そのままの勢いで今川軍は三島(静岡県[[三島市]])まで攻め入り、[[北条幻庵]]の守る[[長久保城]]([[駿東郡]][[長泉町]])(一説<!--『長泉町史』上巻-->には城将は[[葛山氏元]])を包囲し、今井狐橋<ref>富士市の吉原湊北(小和田哲男『今川義元』2004年、ミネルヴァ書房、または長久保城城外(『静岡県古城めぐり』静岡新聞社刊、)</ref>などで戦闘に及んだ。関東では山内・[[扇谷上杉家|扇谷]]連合の大軍に[[武蔵国]][[川越城|河越城]]を包囲され窮地に陥った氏康に、10月下旬には晴信が仲介役として双方の間に割って入り、停戦が成立。
 
11月初旬、今川家重臣・[[太原雪斎]]を交えて誓詞を交し合った後、北条氏は長久保城を今川氏に明け渡した(『[[高白斎記]]』による)。挟撃の片方を治めた氏康は[[河越城の戦い|河越合戦]]に打って出ることとなった。
 
この講和により河東の乱は収束し、今川は遠江平定・三河侵攻、北条は北関東侵攻に専念する状況が生まれた。その後も今川と北条間は、不信による緊張状態にあったものの争乱に発展することはなく、天文21年([[1552年]])に晴信が仲介して甲駿相三国がそれぞれ婚姻関係を結び攻守同盟としての[[甲相駿三国同盟]]が成立した。