「クレイジー・ホース」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Nekosuki600 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
1行目:
'''クレイジー・ホース'''('''[[w:Crazy Horse|Crazy Horse]]''' (Tasunka witko) , [[1840年]] - [[1877年]][[9月5日]])は、[[インディアン]]部族の[[スー族]]に属する[[ラコタ]]の一支族、[[オグララ族]]の戦士。しばしば誤解されるが、[[酋長]]ではない。
[[ファイル:Crazy Horse 1877.jpg|thumb|right|クレイジー・ホース]]
<!--[[ファイル:Crazy Horse 1877.jpg|thumb|right|クレイジー・ホース]]←この写真は別人とされています-->
'''クレイジー・ホース'''('''[[w:Crazy Horse|Crazy Horse]]''' (Tasunka witko) , [[1840年]] - [[1877年]][[9月5日]])は、[[インディアン]]部族の[[スー族]]に属する[[ラコタ]]の一支族、[[オグララ族]]の戦士。しばしば誤解されるが、酋長ではない。
 
== 人物 ==
31 ⟶ 29行目:
また、「常に質素ないでたちでいるように」との啓示も受けた。このため、彼の服装はいつも必要最小限で、彼を描いた映画や絵画にあるように、'''派手な羽根冠をつけて戦に出るようなことは一度もなかった'''とハンプや[[w:He Dog|ヒー・ドッグ]]、[[w:Black Elk|ブラック・エルク]]ら近しい者たちは揃って証言している。「常に弱きものを助け、分け与えよ」との啓示を受け、生涯それを実行した。そのために、彼は部族の中の弱い立場の人たちから熱烈に愛された。
 
戦では負傷したことがないが、[[:en:Lame Deer|ジョン・ファイヤー・レイムディアー]]や[[w:Leonard Crow Dog|レオナルド・クロウドッグ]]によれば、これはクレイジーホースが最初のヴィジョンとともに不思議な力をもつ小石を得ていて、戦の際は必ず耳の後ろに挟んでいたおかげだという。
 
== 戦歴 ==
56 ⟶ 54行目:
 
『[[クレイジー・ホース (映画)]](Crazy Horse)』、[[ケーブルテレビ]]の[[ターナー・ネットワーク・テレビジョン]]が1996年に制作したクレイジー・ホースの半生を描いたケーブルテレビのTV映画。
 
=== 肖像写真 ===
[[ファイル:Crazy Horse 1877.jpg|thumb|rightleft|クレイジー・ホース」と喧伝される肖像写真]]
クレイジーホースは、生涯において写真を残すことはなかったが、「クレイジーホース」とされる一枚の写真(左)がある。このスタジオで撮られた写真は1956年にJ. W. Vaughnという人物によって、ローズバッドインディアン保留地で「本物のクレイジーホースの写真」として販売されていた。現在はモンタナの「リトルビッグホーン国立記念戦場博物館」に鉛版が収蔵され、焼き増し販売もされているこの写真は、公開当時から真贋を巡って議論を呼んだ。
 
専門家は、この写真はクレイジーホースの死んだ1877年より後のものであると検証している。たとえば髪包の長さやヤマアラシの針の胸当て、アスコットタイの形が当時のものと違うこと、スタジオセットの背景が、同時代に同地で撮られた他のいかなるインディアン写真にも使われていない唯一のものであること等がその根拠として挙げられる。
 
クレイジーホースと親交のあった[[:en:Valentine McGillycuddy|ヴァレンタイン・マクギリカッディ博士]]や、クレイジーホースのスケッチ画を描いたウィリアム・ボルドー(William Bordeaux)、またクレイジーホースの実の末妹のアイアン・シダー(Iron Cedar、またはJulia Clown)は、はっきりとこれを「クレイジーホースではない」と言いきっている。
 
また、クレイジーホースの顔には、恋人を巡ってノーウォーターに撃たれた際の大きな傷跡があったが、この写真にはそれがない。現在では、この写真はクレイジーホースの肖像写真としては否定されている。
 
=== 参考文献 ===
61 ⟶ 69行目:
*タイムライフ社 「インディアン」、「グレート・チーフ」
*めるくまーる社 「[[ブラック・エルク]]は語る」
*ペンギン・ライフ社     「クレイジー・ホース」([[ラリー・マクマートリー]]著)
 
 
{{西部開拓時代}}