「夏侯詳」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
トホホ川 (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
編集の要約なし
12行目:
[[建武 (南朝斉)|建武]]末年、夏侯詳は游撃将軍として召還され、南中郎司馬・南新蔡郡太守として出向した。[[永元 (南朝斉)|永元]]元年([[499年]])、南康王[[和帝 (南朝斉)|蕭宝融]]が[[荊州]]刺史となると、夏侯詳は西中郎司馬・新興郡太守に転じ、蕭宝融の赴任を先導した。始安王[[蕭遥光]]が建康で挙兵すると、荊州中兵参軍の劉山陽が潘紹とともに反乱を起こそうとした。夏侯詳は潘紹を偽って呼びだし、城門で潘紹を斬って、[[荊州区|江陵]]の州府を安定させた。[[司州]]刺史に転じたが、赴任しなかった。
 
[[蕭衍]]が起兵すると、夏侯詳は[[蕭穎冑]]とともに蕭衍に味方した。和帝(蕭宝融)が即位すると、夏侯詳は中領軍となり、散騎常侍・[[南郡]]太守の位を加えられた。和帝の政権の方針の多くは、蕭穎冑が夏侯詳と相談して決定した。ほどなく蕭穎冑が死去すると、夏侯詳は[[襄陽市|襄陽]]に使者を送って蕭衍の弟の[[蕭憺]]を迎え、ともに和帝を補佐した。和帝は夏侯詳に禁軍の軍権を与え、殿省への出入りを許そうとしたが、夏侯詳は固辞して受けなかった。[[侍中]]・尚書右僕射に転じた。まもなく使持節・撫軍将軍・荊州刺史に任じられたが、またも固辞した。
 
[[天監]]元年([[502年]])、侍中・車騎将軍として召され、寧都県侯に封じられた。夏侯詳は重ねて辞退したが、侍中のままさらに右光禄大夫の位を受け、豊城県公に改封された。2年([[503年]])、致仕を願い出て、侍中の任を解かれ、特進に進んだ。3年([[504年]])、使持節・散騎常侍・車騎将軍・[[湘州]]刺史に転じた。6年([[507年]])、侍中・右光禄大夫として召還されることとなったが、建康に到着しないうちに、侍中のまま尚書左僕射・金紫光禄大夫に任じられた。道中で病没した。享年は74。[[開府儀同三司]]の位を追贈された。[[諡]]は景といった。