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[[620年]]、唐の趙郡王[[李孝恭]]の攻撃を受け、通州・開州を奪われ、東平王闍提を斬られた。梁の諸将は兵権を専断して、蕭銑は抑制することができなかった。董景珍の弟が将軍となり、乱を謀って、事前に漏れて処刑された。蕭銑は董景珍を長沙から江陵に召還しようとしたが、董景珍は恐れて李孝恭に降った。蕭銑は張繡を派遣して董景珍を攻めさせ、董景珍は潰走して部下に殺された。蕭銑は張繡を尚書令としたが、張繡は功をたのんで驕慢となり、蕭銑はまた張繡を処刑した。蕭銑は外面は寛容だったが、内心は猜疑心深く、成功者をねたんだので、大臣や将軍たちの多くは叛き去り、蕭銑の政権は弱体化した。
[[621年]]、唐の李孝恭と[[李靖]]が[[重慶市|巴]][[蜀]]の兵を率いて[[長江]]を下り、廬江王[[李エン (廬江王)|李瑗]]が[[襄陽]]を、黔州刺史の田世康が辰州道を出て、蕭銑を攻めた。また周法明が唐に降って黄州総管となり、夏口道を抜け、安州を落とした。雷長潁が魯山で降伏した。蕭銑は文士弘を派遣して李孝恭をはばませたが、[[清江]]口に敗れ、戦艦多数を鹵獲された。宜昌・當陽・枝江・松滋を奪われ、江州で蓋彦挙が唐に降った。李孝恭と李靖が江陵を囲み、蕭銑は各地に救援を求めたが援軍は到着せず、ついに唐の軍門に下った。「死すべき者は銑のみで、百姓に罪はない。殺掠しないでいただきたい」と李孝恭に言った。
 
[[長安]]に護送され、[[李淵]]は彼を責めたが、蕭銑は「隋がその鹿を失い、英雄が競いあった。銑には天命がなかったために、陛下の虜となった。[[田横]]が南面して、[[前漢|漢]]に仕えるようなことがあろうか」と答えた。李淵は蕭銑が屈服しないのを怒って長安の市で斬らせた。