「内モンゴル独立運動」の版間の差分

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[[1913年]][[1月11日]]、[[モンゴル人]]、[[チベット人]]は'''[[チベット・モンゴル相互承認条約]]'''を締結して[[チベット]]・[[モンゴル]]は[[清王朝]]から独立するとともに外部からの侵略に対して相互防衛を図ることとした<ref>[http://zh.wikisource.org/zh/%E8%92%99%E8%97%8F%E6%A2%9D%E7%B4%84 蒙藏條約] [[Wikisource]]</ref>。外モンゴルの[[ボグド・ハーン政権]]は[[内モンゴル]]にも勢力を伸ばしモンゴルは一時的に統一状態となったが、ロシア帝国が内モンゴルからモンゴル軍を撤退するよう圧力をかけたため、再びモンゴルは南北分裂に陥った。[[1915年]]にロシア帝国と中華民国によって外モンゴルのみの自治を認めるとした取決めがなされた。[[1919年]]の[[ロシア革命]]によってロシア帝国が崩壊すると中華民国は外モンゴルに軍を進めて占領した。[[1920年]]に[[ソビエト連邦]]に抵抗する[[ロマン・ウンゲルン]]が外モンゴルに[[白軍]]を進駐させて[[中華民国軍]]を追い出したことによって[[ボグド・ハーン政権]]が復権したが、外国軍である白軍に反感を持つものたちの間に[[共産主義]]が浸透するようになり、モンゴル人共産主義者によって[[モンゴル人民党]]が設立されると、[[1921年]]に[[ソビエト]]の[[衛星国]]として'''[[モンゴル人民共和国]]'''が[[外モンゴル]]に建国された。
 
[[1921年]]に孫文は漢民族を中心として、満州族・モンゴル族・ウイグル族・チベット族の四民族を全て漢民族に同化させて[[中華民族]]を形成することにより単一民族国家を組織する旨を『三民主義ノ具体的方策』で発表した<ref name=sakai20040224/>。[[1925年]]に孫文は中国民族の総数は4億人であるが外来民族である[[満州人]]・[[モンゴル人]]・[[ウイグル人]]・[[チベット人]]は一千万人に過ぎないから中国人の大多数は全て[[漢人]]であり、同血統、同言語文字、同宗教、同風俗習慣を持つ完全な単一民族であるとする旨の『三民主義』講演を行った<ref name=sakai20040224/>。[[1929年]]、内モンゴル東部にロシア帝国が敷設した[[北満鉄道]]の権益をめぐって[[ソビエト軍]]と[[中華民国軍]]が全面衝突する([[中ソ紛争]])
 
=== 満州国・蒙古連合自治政府 ===
[[1932年]]に[[清朝]]皇帝であった[[溥儀]]が[[関東軍]]の協力のもとで'''[[満州国]]'''を建国した。これにより内モンゴル東部は満州国となった。満洲国では清王朝以来続く満洲・モンゴルの友好血縁関係からモンゴル人は積極的に満州国皇帝に仕えた。[[1935年]]3月、ソビエトは内モンゴル東部(満州国内)に権益を持っていた[[北満鉄道]]を満州国に売却する。内モンゴルの中部では[[デムチュクドンロブ]](徳王)や[[ユンデン・ワンチュク]](雲王)などの王族によって自治要求運動がなされるようになり、[[1936年]]には自治を求める[[内モンゴル軍]]([[:ru:Национальная армия Мэнцзяна|ru]])と中華民国軍とが全面衝突した([[綏遠事件]])。[[1939年]]、デムチュクドンロブは日本の支援を受けて'''[[蒙古連合自治政府]]'''を樹立し内モンゴルにモンゴル人による自治政府が誕生した。満州国と蒙古連合自治政府はそれぞれ独自の行政機関・軍事組織・通貨をもつなど中国本土とは完全に分離した政治経済体制であった。[[1941年]][[4月13日]]、[[日ソ中立条約]]が[[ソビエト]]と[[日本]]の間で締結され、[[満州国]](内モンゴル東部)と[[モンゴル人民共和国]](外モンゴル)の領土保全と相互不可侵を約束した共同声明が出された<ref>{{cite web
| url = http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPRU/19410413.D1J.html
| title = 日ソ中立条約,声明書
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}}</ref>。
 
[[1945年]][[8月9日]]に突如としてソビエト軍が[[満州国]]と内モンゴルに侵略してきたことによって[[満州国]]・[[蒙古連合自治政府]]は崩壊した([[ソビエト参戦]])。内モンゴル東部はソビエト軍の占領下におかれ、それを引き継いだ中国共産党の支配下に入った。内モンゴル中部は、終戦日を過ぎてもソビエト兵から難民を守るために[[根本博]][[中将]]揮下の[[駐蒙軍]]が終戦日を過ぎた[[8月21日]]までソビエト軍の進撃を食い止めた後、中華民国軍に引き渡したことによって中華民国政府の支配下に入った。
 
=== 中華人民共和国 ===
[[1945年]]8月以降、中華民国政府と反政府勢力の[[中国共産党]]との間で[[国共内戦]]が行われた。[[国共内戦]]のさなかの[[1947年]][[5月1日]]、中国共産党員の[[ウランフ]]は内モンゴルに[[内蒙古自治区]]を設置して主席に就任した<ref name=sakurai20080619/>。[[1949年]]の'''[[中華人民共和国]]'''建国以降もウランフは主席として君臨していたが、[[1966年]][[7月12日]]に[[鄧小平]]がウランフを「分裂主義者」であるとして失脚させると中国政府は'''[[内モンゴル人民革命党粛清事件]]'''と呼ばれるモンゴル人への[[大粛清]]を行い数十万人を粛清した<ref name=sakurai20080619>{{cite web
|url=http://yoshiko-sakurai.jp/index.php/2008/06/19/%E3%80%8C%E2%80%9C%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E4%BA%BA%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8E%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%89-%E5%AE%9F%E9%8C%B2%E2%80%9D%E3%80%8D/
|title= 「“モンゴル人ジェノサイド 実録”」