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|監督年=1975-1979
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'''エルジン・ガイ・ベイラー'''('''Elgin(Elgin Gay Baylor''', [[1934年]][[9月16日]] - ) は[[アフリカ系アメリカ人]]の元[[バスケットボール]]選手。[[ワシントンD.C.]]出身。身長196cm、体重102kg。1960年代、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]男子プロバスケットボールリーグ[[NBA]]の名門、[[ロサンゼルス・レイカーズ]]で活躍した、史上最高の[[スモールフォワード]]の一人と目される往年の名選手である。
 
[[シアトル大学]]でプレーした後、[[1958年のNBAドラフト]]で全体1位指名を受けてレイカーズに入団。以後、[[NBAルーキー・オブ・ザ・イヤー|新人王]]受賞、オールNBA1stチーム選出10回、[[NBAオールスターゲーム]]出場11回を誇るリーグを代表する選手として活躍した。彼と[[ジェリー・ウェスト]]を擁したレイカーズは強豪として60年代を過ごしたが、一方で8回進出した[[NBAファイナル]]では尽く[[ボストン・セルティックス]]の前に敗れており、ベイラーは[[1971-1972シーズンのNBA|1971年]]に現役から引退するまで一度も優勝を経験しなかった不運の選手としても知られている。しかしながら得点とリバウンドに長け、ことその身体能力を活かしたアクロバティックなプレーは、後の[[ジュリアス・アービング]]や[[マイケル・ジョーダン]]らにも多大な影響をもたらし、ひいてはバスケットという競技そのものを大きく飛躍させたとして彼の業績は高く評価されている。1977年には[[バスケットボール殿堂|殿堂入り]]を果たし、背番号「22」はレイカーズの[[永久欠番]]に指定され、[[NBA35周年オールタイムチーム|NBA35周年]]、[[NBA50周年記念オールタイムチーム|NBA50周年]]オールタイムチームにも名を連ねた。
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=== 大学キャリア ===
素晴らしい成績を残して1954年にスピンガーン高校を卒業したベイラーだったが、学業での不振が祟り、バスケット名門大学からの勧誘は皆無だった。しかしスポーツ無名校のアイダホカレッジ([[:en:Albertson College of Idaho]])からはバスケットと[[アメリカンフットボール|フットボール]]で奨学金を獲得。ベイラーはアイダホカレッジでの1954-55シーズンに平均31.3得点18.9リバウンドという成績を残すが、1954‐55シーズン終了後、アイダホカレッジはスポーツ奨学生への支援を縮小し、バスケットコーチも解雇。そのあおりを受けたベイラーもアイダホカレッジを去らなければならなくなった。ところがこの中退が、ベイラーにとっては思わぬ幸運となった。翌1955-56シーズンを[[シアトル]]の[[アマチュア・アスレチック・ユニオン]]チーム、ウエストサイド・フォードで過ごしたベイラーは、ここでの活躍がスカウトの目に留まり、[[シアトル大学]]への編入が決定。無名校のアイダホカレッジよりも遥かに格上のシアトル大でプレーするという大きなチャンスに恵まれたのである。
 
ベイラーはカレッジバスケのトップリーグでも大いに活躍。1956-57シーズンは平均29.7得点20.3リバウンドを記録。平均32.5得点19.3リバウンドを記録した1957‐58シーズンにはシアトル大チーフタンズを[[NCAA男子バスケットボールトーナメント|NCAAトーナメント]]決勝へと導いた。決勝では伝説の名将、[[アドルフ・ラップ]]指揮する[[ケンタッキー大学]]と対決。シアトル大は72-84で敗退するが、ベイラーはトーナメントMVPにあたるMost Outstanding Playerを受賞した。シアトル大での2年のプレーで一気に名を挙げたベイラーはついにプロのスカウトからも注目を浴びるようになり、[[1958年のNBAドラフト]]ではミネアポリス・レイカーズ(後の'''[[ロサンゼルス・レイカーズ]]''')から全体1位指名される。ベイラーは1955-56シーズンを大学でプレーしていないため、まだ1年間大学でプレー出来る資格を持っており、ベイラー自身シアトル大に残るつもりだった。しかしNBA最初期の1940年代後半から50年代前半にかけて5度の優勝を果たすも、偉大な[[センター (バスケットボール)|センター]]、[[ジョージ・マイカン]]引退後は成績が低迷し、フランチャイズ崩壊の危機に陥っていたレイカーズは、何としてもベイラーと契約を結びたかった。レイカーズはベイラーを熱心に勧誘し、当時としては破格の年2万ドルという契約を提示。彼らの熱意についに折れたベイラーは、[[1958-1959シーズンのNBA|1958-59シーズン]]からのレイカーズ入団を決意した。当時のレイカーズのオーナー、ボブ・ソートは1971年の[[ロサンゼルスタイムズ]]紙のインタビューで、もしベイラーを獲得できなかったら「クラブは破産していただろう」と語っている。ベイラーの同期には[[ハル・グリア]]、[[ガイ・ロジャーズ]]、[[ウェイン・エンブリー]]らがいる。
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*シアトル大学(NCAAトーンメント決勝)、ロサンゼルス・レイカーズ(NBAファイナル)で9度決勝に進出しながら優勝に導けず、クリッパーズでも勝ち星に恵まれない状況が続いていることから、「エルジン・ベイラーの呪い」の存在が示唆されている。
 
== 関連項目 ==
*[[ロサンゼルス・レイカーズのチーム記録]]
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
<references/>
 
== 外部リンク ==
*[http://www.hoophall.com/halloffamers/Baylor.htm バスケットボール殿堂公式サイト]
*[http://www.nba.com/history/players/baylor_bio.html NBA.com Bio]
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{{NBA50}}
{{NBA35}}
 
 
{{DEFAULTSORT:へいら えるしん}}