「クレイジー・ホース」の版間の差分

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また、「常に質素ないでたちでいるように」との啓示も受けた。このため、彼の服装はいつも必要最小限で、彼を描いた映画や絵画にあるように、'''派手な羽根冠をつけて戦に出るようなことは一度もなかった'''とハンプや[[w:He Dog|ヒー・ドッグ]]、[[w:Black Elk|ブラック・エルク]]ら近しい者たちは揃って証言している。「常に弱きものを助け、分け与えよ」との啓示を受け、生涯それを実行した。そのために、彼は部族の中の弱い立場の人たちから熱烈に愛された。
 
戦では負傷したことがないが、スー族の伝統派呪い師である[[:en:Lame Deer|ジョン・ファイヤー・レイムディアー]]や[[w:Leonard Crow Dog|レオナルド・クロウドッグ]]によれば、これはクレイジーホースが最初のヴィジョンとともに不思議な力をもつ小石を得ていて、戦の際は必ず耳の後ろに挟んでいたおかげだという<ref>『Lame Deer, Seeker of Visions』(レイムディアー、[[w:Richard Erdoes|リチャード・アードス]]共著、1972年)、『魂の指導者クロウドッグ』(レオナルド・クロウドッグ、リチャード・アードス共著、サンマーク出版)</ref>。スー族は彼を、「われらの稀有なる男」と呼んでいた。
 
== 戦歴 ==
 
[[1876年]][[3月17日]]の[[w:Battle of Powder River|パウダー川の戦い]]同年[[6月17日]]のジョージ・クルック]]将軍を退けた同年[[6月17日]]の「[[w:Battle of the Rosebud|ローズバッドの戦い]]などで活躍し、[[6月25日]]には[[リトルビッグホーンの戦い]]で[[ジョージ・アームストロング・カスター|カスター中佐]]の大隊を全滅させたひとりとなった。
 
ほかの酋長・戦士がその地から逃亡する中、とどまって戦いを継続していたが、1877年[[5月6日]]に、彼を慕う900人のスー族戦士とともにアメリカ政府に投降し、[[ジョージ・クルック]]将軍が総司令官を務めるネブラスカ北西の「ロビンソン砦」に入った。このとき、初の会見の場でクレイジーホースはクルック将軍の前で跪いたとの説がある。やがて、常に白人と距離を置く彼の姿勢は、[[保留地]]内で反乱分子視されることとなる。クレイジーホースは、米軍が規定した野営位置である「砦から3マイル(約4,83㎞)」の距離を守らず、常に6マイル(約10㎞)離れたところに野営し、やむなき場合にのみ、白人たちに会うという態度を続けていた。
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== その最期 ==
 
1877年[[9月5日]](合衆国陸軍の公式記録では6日。9日とする資料もある)、司令官との会談を申し入れられ、ジェシー・リーという政府管理官によって、「スポッテッド・テイル管理所」からロビンソン砦へ、強引に連行された。が、総司令官のクルック将軍は会談には来ておらず、連れていかれた場所は営倉だった。クレイジーホースは激しく抵抗し、元仲間だったリトル・ビッグマンと[[:en:Touch the Clouds|タッチ・ザ・クラウド]]、白人兵に押さえ込まれ、[[:en:William Gentles|ウィリアム・ジェントルズ]]という歩哨によって銃剣で刺殺された。'''36歳'''だった。ジェシー・リー管理官はのちに、営でクレイジーホースに対する拷問があったことを認めている。
 
クルック将軍はのちに、すべてを嘘で固めたうえで<ref>[[ラリー・マクマートリー]]著『クレイジー・ホース』</ref>クレイジーホースの死に関して、「私はその会談に行くべきだった。どんな場所だろうと、私が到着するまで決して始めさせることはなかったのだ。私は[[w:Dry Tortugas|ドライ=トーチュガス島監獄]]<ref>フロリダにあった、当時インディアン専用の監獄島</ref>にクレイジーホースを送致していただろう」と述べ、遺憾の意を表している。