「ノート:小田原征伐」の版間の差分

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:やはりルール作りが必要ではないかと。--[[利用者:蚯蚓|蚯蚓]] 2011年1月11日 (火) 11:03 (UTC)
 
::「出典」の元となっている外部での統一がなされていない状態での、統一且つ確定的なルール作りには無理があると思われます。戦争は戦国時代だけにあったわけでもありませんし。表記の揺れの大体は記事中で説明されております。揺れがあることが学界を含めた現状であるなら、その反映たるwikipedhiawikipediaも揺れがあっておかしくはないと思われます。例えば、これは個人サイトですが、このような理解の仕方をしている人も居ます。「[http://www.ab.auone-net.jp/~tsuka21/theme/kosyo.html]」。ルールの基準をどこに定めるかで一般的な名称から離れることもありえますし、時間の経過によって定めたはずの記事名が、すぐに不適当になる場合も考えられます。記事ごとに、時々に議論を重ねて決めていくしかないと思います。確定されたものでないのだから、確定できないのは当たり前とも言えます。--[[利用者:ジャムリン|ジャムリン]] 2011年1月11日 (火) 11:33 (UTC)
 
::別冊太陽「戦国大名」でも全ての地方平定戦全てを「平定」で統一しているわけではなく、文中においては執筆担当の研究者によっては「合戦」(小田原合戦)、「出兵」(四国出兵)等も使われています。また、同書の中でも触れられていましたが、四国・九州と違い、後北条氏に関しては、秀吉は既に臣従しているものとの認識で、政権内部の事件として見られたために戦後処理における違いが出たとの見解・説があります。政権外勢力との戦争を「役」を呼ぶと定義した場合には「小田原の役」では不適切ということにもなりかねません。そして、後北条氏を含めた研究においても、その観点で「誅伐」という言葉が使われていることがあります。--[[利用者:ジャムリン|ジャムリン]] 2011年1月11日 (火) 22:22 (UTC)