「惟宗直本」の版間の差分

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'''惟宗 直本'''(これむね の なおもと、生没年不詳)は、[[平安時代]]の[[明法道|明法家]]。氏姓は秦公のち[[惟宗氏|惟宗]][[朝臣]]。惟宗直宗の弟で<ref>『[[日本三代実録]]』元慶7年12月25日条</ref>、子に公方がいた<ref>直本の父を富成とし、子に善経・善貞がいたとする[[系図]]もある。また、当系図では直本と直宗の関係を従兄弟とし、直宗の子に公方を置いている(『惟宗系図』(東大史料編纂所蔵)(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、[[1986年]] による)。</ref>。
 
[[元慶]]元年([[877年]])兄の直宗と共に[[讃岐国]][[香川郡]]から左京六条に[[移貫]]する頃には[[従六位#正七位|正七位上]][[弾正台|弾正少忠]]になっていた。[[元慶]]7年([[883年]])直本を含む同族19人が[[惟宗氏|惟宗朝臣]]を賜与され(この時の官位は[[正六位|正六位上]]・[[衛門府|右衛門少志]])る。[[寛平]]年間に[[検非違使]][[衛門府|右衛門尉]]に任ぜられるが、在任中に検非違使別当・[[藤原時平]]からの諮問により『[[検非違使私記]]』を撰述。[[延喜]]7年([[907年]])[[明法博士]]に任ぜられ、その後[[勘解由使|勘解由次官]]・[[主計寮|主計頭]]を歴任した。明法道の権威として、自邸で[[律令]]を講じることが許されるほどであったという。
 
著作に『[[令集解]]』と『[[律集解]]』があり、『[[二中歴]]』には[[十大法律家]]の一人としてあげられている。