「マラン・メルセンヌ」の版間の差分

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== 他の学者との交流 ==
 
メルセンヌの時代は今ほど通信手段が発達しておらず、研究者間の書簡のやり取りや議論が困難だったが、エティエンヌおよび[[ブレーズ・パスカル]]父子、[[ジラール・デザルグ]]、[[ジル・ド・ロベルヴァル]]など当代の一流の研究者や思想家達を招き、修道院の客間にて学問を論じ合う、メルセンヌ・アカデミーと称された広い交流を維持していた。この活動は1666年に創立される[[パリ科学アカデミー]]へと発展してゆく。その他にも、[[ピエール・ド・フェルマー|フェルマー]]や[[ルネ・デカルト]]、[[ガリレオ・ガリレイ]]や[[クリスティアーン・ホイヘンス|ホイヘンス]]や[[エヴァンジェリスタ・トリチェリ|トリチェリ]]などとも交流があり、科学的な雑誌がなかった当時のヨーロッパ中の学者たちの文通による交流の中心となり、学問の発達に大いに貢献した。
 
ルネ・デカルトの「方法序説」の中で提唱した有名な命題であり、デカルト自身はフランス語で記述していた『[[我思う、ゆえに我あり]]』のラテン語訳(cogito, ergo sum)を行った。