「茶道」の版間の差分
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→茶道の歴史: 2009年4月15日 (水) 08:43 (UTC) |
点茶写真が限定的な例であることを明示。その他画像を記事の対応部分に移動。 |
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[[File:Outdoor Tea Ceremony.jpg|thumb|茶を点てる様子。写真は、盆と鉄瓶を使った簡略的な点茶の例。<!-- 説明文の通りですので、釜を使った一般的なお手前の写真があれば差し替え願います。なお、立礼席も一般的な例とは言えないので注意 -->]]
[[File:KoudaijiIhoan.jpg|thumb|[[茶室]]]]▼
[[File:Museum für Ostasiatische Kunst Dahlem Berlin Mai 2006 017.jpg|thumb|[[茶室]]と[[茶道具]]]]▼
'''茶道'''(さどう、ちゃどう)とは、湯を沸かし、[[茶]]を点(た)て、茶を振る舞う行為。またそれを基本とした様式と[[芸道]]。
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[[室町時代]]においては、飲んだ水の産地を当てる闘水という遊戯から、[[闘茶]]という、飲んだ茶の銘柄を当てる一種の博打が流行した。また、本場[[中国]]の[[茶器]]「[[唐物]]」がもてはやされ、大金を使って蒐集し、これを使用して盛大な茶会を催すことが大名の間で流行した(これを「唐物数寄」と呼ぶ)。これに対し、[[村田珠光]]が茶会での博打や飲酒を禁止し、亭主と客との精神交流を重視する茶会のあり方を説いた。これが[[わび茶]]の源流となっていく。
▲[[File:KoudaijiIhoan.jpg|thumb|草庵風[[茶室]]]]
[[わび茶]]はその後、[[堺市|堺]]の[[町衆]]である[[武野紹鴎]]、その弟子の[[千利休]]によって[[安土桃山時代]]に完成されるに至った。利休のわび茶は武士階層にも広まり、[[蒲生氏郷]]、[[細川忠興|細川三斎]]、[[牧村利貞|牧村兵部]]、[[瀬田掃部]]、[[古田重然|古田織部]]、[[芝山監物]]、[[高山右近]]ら[[利休七哲]]と呼ばれる弟子たちを生んでいく。さらには[[わび茶]]から発展し、小堀遠州、[[片桐貞昌|片桐石州]]、[[織田長益|織田有楽]]ら流派をなす[[大名]]も現われた。現代では特に[[武家茶道]]、或いは[[大名茶]]などと呼んで区別する場合もある。
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=== 茶道の実践 ===
<!--流派によって考え方が異なるので断定した書き方は避けるべきである。例えば客をもてなすことイコール茶道ではなく、茶を通じての求道という考えも有る-->
▲[[File:Museum für Ostasiatische Kunst Dahlem Berlin Mai 2006 017.jpg|thumb|[[茶室]]内部と[[茶道具]]]]
;茶事
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