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[[Imageファイル:Felix Christian Klein.jpg|thumb|フェリックス・クライン]]
'''フェリックス・クリスティアン・クライン'''('''Felix Christian Klein''', [[1849年]][[4月25日]] - [[1925年]][[6月22日]])は、[[ドイツ]]の[[数学者]]。[[群論]]と[[幾何学]]との関係、[[関数論]]などの発展に寄与した。[[クラインの壺]]の考案者として知られる。[[ダフィット・ヒルベルト|ヒルベルト]]や[[アンリ・ポアンカレ|ポアンカレ]]といった次の世代の数学者に影響を与えた。
 
== 略歴 ==
[[プロイセン王国]]政府の首長秘書だった父のもと[[デュッセルドルフ]]に生まれ、[[ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン|ボン大学]]で数学を学んだ。この時代のヨーロッパは緊張が続いており、プロイセンが[[フランス]]との[[普仏戦争]]に至ったときは衛生兵としてプロイセン軍に従事した。ここで後に[[文部大臣]]となる[[フリードリヒ・アルトホフ]]と出会っている。
* [[1849年]] - [[デュッセルドルフ]]に生まれる。
* [[ボン大学]]で数学を学ぶ。
* [[1872年]] - エアランゲン大学(現[[エアランゲン・ニュルンベルク大学]])[[教授]]に23歳という若さで就く。
* [[1875年]] - [[ミュンヘン工科大学]]教授に就く。哲学者[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]の孫アンネ・ヘーゲルと結婚。
* [[1880年]] - [[ライプツィヒ大学]]教授に就く。
* [[1886年]] - [[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]教授に就く(-[[1913年]])
 
戦争の後の1872年、23歳という異例の若さで[[フリードリヒ・アレクサンダー大学エアランゲン=ニュルンベルク|エアランゲン大学]]の教授に就任することになった。この間に彼の大きな業績のひとつであるエルランゲン・プログラムを考案した。[[1875年]]には[[ミュンヘン工科大学]]教授に就き、また哲学者[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]]の孫アンネ・ヘーゲルと結婚した。
クラインはプロイセン政府の首長秘書だった父の元に生まれた。この時代のヨーロッパは緊張が続いており[[プロイセン王国]]が[[フランス]]と[[普仏戦争|戦争]]になったときは衛生兵としてプロイセン軍に従事した。<ref>このフランスとドイツの長年に亘る対立はクラインやヒルベルトと共に19世紀を代表するフランスの数学者アンリ・ポアンカレとの確執を生むことになる。</ref>ここで後に[[文部大臣]]となる[[フリードリヒ・アルトホフ]]と出会う。戦争の後の1872年、彼は23歳という異例の若さでエアランゲン大学の教授に就任することになった。この間に彼の大きな業績のひとつであるエルランゲン・プログラムを考案した。[[ライプツィヒ大学]]で教鞭をとっていた[[1881年]]初頭、フランスの[[科学アカデミー]]が[[1878年]]に提示した[[微分方程式]]に関するコンクールの問題についてポアンカレが発表した論文を読んだことで彼と交流を始める。ポアンカレとの文通は最初は温和なものだったが次第に皮肉の混じったものになっていき最終的にはお互いの国にまで批判が及ぶようなものになり[[1882年]]にポアンカレが書いた手紙を最後に文通は途切れることになる。この2人の対立はお互いに相当大きな負担になったといわれる。最後の手紙の数ヵ月後クラインは[[うつ病]]にかかり休養を余儀なくされる。この後クラインは研究よりも教育に力を入れ始めダフィット・ヒルベルトや[[マックス・デーン]]などの数学者を育てた。このときにもクラインのポアンカレへの反感は消えておらずヒルベルトをポアンカレの元に留学させたときもヒルベルトにポアンカレはたいした結果が無い場合でもとにかく論文を書きたがるが、パリでそういう批判は聞かないかと尋ねたりし、デーンがポアンカレが解けなかった予想(ポアンカレ予想のことである)を解いたと思い込んだときには先を越される前に早く発表しろと急がしたりしたという。
 
[[1880年]]には[[ライプツィヒ大学]]で教鞭をとるようになり、翌[[1881年]]初頭、フランスの[[科学アカデミー (フランス)|科学アカデミー]]が[[1878年]]に提示した[[微分方程式]]に関するコンクールの問題についてポアンカレが発表した論文を読んだことで彼と交流を始める。ポアンカレとの文通は最初は温和なものだったが、次第に皮肉の混じったものになっていき、最終的にはお互いの国にまで批判が及ぶようなものになり、[[1882年]]にポアンカレが書いた手紙を最後に文通は途切れることになる。この2人の対立はお互いに相当大きな負担になったといわれる。
 
最後の手紙の数か月後、クラインは[[うつ病]]にかかり休養を余儀なくされる。この後クラインは研究よりも教育に力を入れるようになり、ヒルベルトや[[マックス・デーン]]などの数学者を育てた。このときにもクラインのポアンカレへの反感は消えておらず、ヒルベルトをポアンカレの元に留学させたときも「ポアンカレは大した結果がない場合でもとにかく論文を書きたがるが、パリでそういう批判は聞かないか」とヒルベルトに尋ねたりし、ポアンカレが解けなかった予想([[ポアンカレ予想]])をデーンが解いたと思い込んだときには「先を越される前に早く発表しろ」と急かしたりしたという。
 
[[1885年]]に英国[[王立協会]]の会員となる。[[1886年]]に[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]教授に就任。[[1912年]]に[[コプリ・メダル]]を受けている。[[1913年]]に健康上の理由でゲッティンゲン大学を退職したが、その後数年ほどは自宅で講義を続けていた。ゲッティンゲンにて没。
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== 功績 ==
彼の幾何学における最も重要な業績ともいわれるのが'''[[エルランゲン・プログラム]]'''([[変換 (数学)|変換]]と[[不変量]]を基にした幾何学の特徴付け)であり、クラインがエアランゲン大学の教授だった頃に作られたことにちなむ。
彼の幾何学における最も重要な業績ともいわれるのが'''[[エルランゲン・プログラム]]'''<ref>''[[変換 (数学)|変換]]と[[不変量]]を基にした幾何学の特徴付け''、クラインがエアランゲン大学の教授だった頃に作られたことに因む。</ref>である。彼は幾何学を[[図形]]([[空間]])にある変換を施したときに変わらない性質を研究する[[学問]]であるとした。<ref>[[集合論]]の言葉を用いれば与えられた[[集合]]と[[変換群]]が与えられ、その変換に対して変化しない集合の性質を調べることと言い換えられる。</ref>例えば[[ユークリッド幾何学]]では[[回転]]、[[鏡映]]、[[平行移動]]の3つの変換<ref>正確には[[単位元]]として全く動かさない変換である[[恒等変換]]がある。これらは合わせて''[[ユークリッド変換]]''、''[[剛体変換]]''などと呼ばれ、それらのなす[[群 (数学)|群]]を[[ユークリッド群]]と呼ぶ。</ref>が許されており、不変量としては[[長さ]]、[[角度]]、[[面積]]などが挙げられる。また[[射影幾何学]]においては[[射影変換]]が許されているので角度や長さは不変量とはならないが直線はあくまでも直線であり[[複比]]も保存される。(クラインは[[射影変換群]]がユークリッド群より本質的に大きいことを示した。つまり射影幾何学とユークリッド幾何学は構造的に異なるということである。この成果は射影幾何学における最後の大発見ともいわれる。)[[位相幾何学]](トポロジー)では[[連続変換]]([[ホメオモルフィズム]])が許されておりこのときは図形の[[連結性]]以外は保存されない。<ref>トポロジーにおける不変量としては[[オイラー標数]]や[[ベッチ数]]、[[ホモトピー群]]などがあるが完全な分類に使えるものは発見されていない。これは有名な[[ポアンカレ予想]]にもつながるものだが、前述のようにクラインはトポロジーの基礎を築き上げたポアンカレと対立していたためこの問題の解決にも相当な知恵を傾けたといわれる。</ref>この特徴付けの最も大きな意味はいままで雑多に創り出されてきた数々の幾何学が分類しなおされたことである。(彼のプログラムに従わなかったものとして[[リーマン幾何学]]がある。この幾何学では空間の普遍性を仮定していないため一般に可能な変換は恒等変換だけになってしまう。この不備はクラインの後に修正された。)この幾何学の分類という問題は彼の教え子であったヒルベルトの[[公理系]]による幾何学を含めた数学の諸分野の体系付けという新たな道にも影響を与えることになる。
 
彼の幾何学における最も重要な業績ともいわれるのが'''[[エルランゲン・プログラム]]'''<ref>''[[変換 (数学)|変換]]と[[不変量]]を基にした幾何学の特徴付け''、クラインがエアランゲン大学の教授だった頃に作られたことに因む。</ref>である。彼は幾何学を[[図形]]([[空間]])にある変換を施したときに変わらない性質を研究する[[学問]]であるとした。<ref>[[集合論]]の言葉を用いれば与えられた[[集合]]と[[変換群]]が与えられ、その変換に対して変化しない集合の性質を調べることと言い換えられる。</ref>例えば[[ユークリッド幾何学]]では[[回転]]、[[鏡映]]、[[平行移動]]の3つの変換<ref>正確には[[単位元]]として全く動かさない変換である[[恒等変換]]がある。これらは合わせて''[[ユークリッド変換]]''''[[剛体変換]]''などと呼ばれ、それらのなす[[群 (数学)|群]]を[[ユークリッド群]]と呼ぶ。</ref>が許されており、不変量としては[[長さ]]、[[角度]]、[[面積]]などが挙げられる。また[[射影幾何学]]においては[[射影変換]]が許されているので角度や長さは不変量とはならないが直線はあくまでも直線であり[[複比]]も保存される。クラインは[[射影変換群]]がユークリッド群より本質的に大きいことを示した。つまり射影幾何学とユークリッド幾何学は構造的に異なるということである。この成果は射影幾何学における最後の大発見ともいわれる。)[[位相幾何学]](トポロジー)では[[連続変換]]([[ホメオモルフィズム]])が許されておりこのときは図形の[[連結性]]以外は保存されない。<ref>トポロジーにおける不変量としては[[オイラー標数]]や[[ベッチ数]]、[[ホモトピー群]]などがあるが完全な分類に使えるものは発見されていない。これは有名な[[ポアンカレ予想]]にもつながるものだが、前述のようにクラインはトポロジーの基礎を築き上げたポアンカレと対立していたためこの問題の解決にも相当な知恵を傾けたといわれる。</ref>この特徴付けの最も大きな意味はいままで雑多に創り出されてきた数々の幾何学が分類しなおされたことである。(彼のプログラムに従わなかったものとして[[リーマン幾何学]]がある。この幾何学では空間の普遍性を仮定していないため一般に可能な変換は恒等変換だけになってしまう。この不備はクラインの後に修正された。)この幾何学の分類という問題は彼の教え子であったヒルベルトの[[公理系]]による幾何学を含めた数学の諸分野の体系付けという新たな道にも影響を与えることになる。
クラインは[[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]]や[[ベルンハルト・リーマン|リーマン]]の創始した[[多様体論]]にも大きな功績を残している。彼は[[微分幾何学]]の分野では[[多様体]]に持たせる[[幾何構造]]は剛体変換を可能にすることができる自然なものにすべきだとし<ref>これは前述のエアランゲン・プログラムで扱うことができる「幾何学」である。</ref>[[2次元多様体]]は全て3種類の自然な幾何構造を持つと信じた。(クラインは正しさを確信していたが、結局証明はできなかった。これの完全な[[証明]]は[[1907年]]にポアンカレと[[パウル・ケーベ|ケーベ]]によってそれぞれ独立になされ[[一意化定理]]と呼ばれている。)これは[[幾何化予想]]<ref>3次元で同じことを考えられないかという予想でポアンカレ予想の最終的解決に大きな意味を持った予想。</ref>などその後の幾何構造の研究に大きな影響を与えた。さらに位相幾何学の分野では[[向き|向き付け不可能]]な[[閉曲面]]を初めて発見した。この多様体は''[[クラインの壺]]''といわれている。<ref>「クライン」にはドイツ語で「小さい」という意味があることからクラインの壺のことを「小さい壺」と書いた本がしばしば見受けられる。これはトポロジーでは大きさを考えないことに掛けたジョークである。</ref>
 
[[位相幾何学]](トポロジー)では[[連続変換]]([[ホメオモルフィズム]])が許されておりこのときは図形の[[連結性]]以外は保存されない。トポロジーにおける不変量としては[[オイラー標数]]や[[ベッチ数]]、[[ホモトピー群]]などがあるが完全な分類に使えるものは発見されていない。これはポアンカレ予想にもつながるものだが、前述のようにクラインはトポロジーの基礎を築き上げたポアンカレと対立していたためこの問題の解決にも相当な知恵を傾けたといわれる。この特徴付けの最も大きな意味はいままで雑多に創り出されてきた数々の幾何学が分類しなおされたことである。
 
彼のプログラムに従わなかったものとして[[リーマン幾何学]]がある。この幾何学では空間の普遍性を仮定していないため一般に可能な変換は恒等変換だけになってしまう。この不備はクラインの後に修正された。この幾何学の分類という問題は彼の教え子であったヒルベルトの[[公理系]]による幾何学を含めた数学の諸分野の体系付けという新たな道にも影響を与えることになる。
 
クラインは[[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]]や[[ベルンハルト・リーマン|リーマン]]の創始した[[多様体論]]にも大きな功績を残している。彼は[[微分幾何学]]の分野では[[多様体]]に持たせる[[幾何構造]]は剛体変換を可能にすることができる自然なものにすべきだとし<ref>これは前述のエアランゲン・プログラムで扱うことができる「幾何学」である。</ref>)、[[2次元多様体]]は全て3種類の自然な幾何構造を持つと信じた。クラインは正しさを確信していたが、結局証明はできなかった。これの完全な[[証明]]は[[1907年]]にポアンカレと[[パウル・ケーベ|ケーベ]]によってそれぞれ独立になされ[[一意化定理]]と呼ばれている。これは[[幾何化予想]]<ref>3次元で同じことを考えられないかという予想でポアンカレ予想の最終的解決に大きな意味を持った予想。</ref>などその後の幾何構造の研究に大きな影響を与えた。さらに位相幾何学の分野では[[向き|向き付け不可能]]な[[閉曲面]]を初めて発見した。この多様体は''[[クラインの壺]]''といわれている。<ref>「クライン」にはドイツ語で「小さい」という意味があることからクラインの壺のことを「小さい壺」と書いた本がしばしば見受けられる。これはトポロジーでは大きさを考えないことに掛けたジョークである。</ref>
 
さらに位相幾何学の分野では[[向き|向き付け不可能]]な[[閉曲面]]を初めて発見した。この多様体は[[クラインの壺]]といわれている。なお「クライン」にはドイツ語で「小さい」という意味があることからクラインの壺のことを「小さい壺」と書いた本がしばしば見受けられる。これはトポロジーでは大きさを考えないことに掛けたジョークである。
 
== 著書 ==
*{{Cite book|和書|others=[[林鶴一]]・[[武辺松衛]]訳|year=1921|title=独逸ニ於ケル数学教育 ふぇりっくす・くらいん講演|publisher=大日本図書}}
*{{Cite book|和書|others=[[遠山啓]]監訳|year=1959|title=高い立場からみた初等数学|volume=第1|series=数学選書|publisher=商工出版社}}
*{{Cite book|和書|others=[[遠山啓]]監訳|year=1960|title=高い立場からみた初等数学|volume=第2|series=数学選書|publisher=商工出版社}}
*{{Cite book|和書|others=[[遠山啓]]監訳|year=1961|title=高い立場からみた初等数学|volume=第3|series=数学選書|publisher=商工出版社}}
*{{Cite book|和書|others=[[遠山啓]]監訳|year=1961|title=高い立場からみた初等数学|volume=第4|series=数学選書|publisher=東京図書}}
*{{Cite book|和書|author=ヒルベルト|authorlink=ダフィット・ヒルベルト|coauthors=クライン|others=[[寺阪英孝]]・[[大西正男]]訳・解説|year=1970|title=幾何学の基礎/エルランゲン・プログラム
|series=現代数学の系譜 7|publisher=共立出版|isbn=4-320-01160-0|url=http://www.kyoritsu-pub.co.jp/series/keifu.html#7}}
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*{{Cite book|和書|others=[[石井省吾]]・[[渡辺弘]]訳|year=1995|month=9|title=クライン:19世紀の数学|publisher=共立出版|isbn=4-320-01493-6|url=http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookhtml/0201/000078.html}}
*{{Cite book|和書|others=[[関口次郎]]訳|year=1997|month=4|title=正20面体と5次方程式|series=シュプリンガー数学クラシックス|publisher=シュプリンガー・フェアラーク東京|isbn=4-431-70692-5}}
**{{Cite book|和書|others=[[関口次郎]]・[[前田博信]]訳|year=2005|month=10|title=正20面体と5次方程式|edition=改訂新版|series=シュプリンガー数学クラシックス 第5巻|publisher=シュプリンガー・フェアラーク東京|isbn=4-431-71118-X|url=http://www.springer.jp/978-4-431-71118-6}}
 
== 関連項目 ==
{{Commons|Felix Klein}}
* [[エルランゲン・プログラム]]
* [[クライン群]]
* [[クラインの四元群]]
* [[クラインの壺]]
 
== 注釈 ==
{{Reflist}}
 
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Felix Klein|Felix Klein}}
*O'Connor, John J.; Robertson, Edmund F., "[http://www-history.mcs.st-andrews.ac.uk/Biographies/Klein.html Felix Klein]", MacTutor History of Mathematics archive,
*[http://klein.math.okstate.edu/ Klein's Web Pages.]