「剱木亨弘」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m →‎来歴・人物: 日付を追加
Stukn (会話 | 投稿記録)
m →‎来歴・人物: 自由党 (日本 1950-1955)
4行目:
[[福岡県]][[田川郡]]大任村(現・[[大任町]])に、開業医・劔木元享の長男として生まれる。[[福岡県立豊津高等学校|豊津中学]]、[[第五高等学校_(旧制)|第五高等学校]]を経て、[[1927年]][[東京大学|東京帝国大学]]法学部を卒業。2年後の[[1929年]][[文部省]]に入省する。香川県学務課長、本省教学局思想課長、専門教育局大学教育課長などを務め、戦後の[[1947年]]学校教育局次長となり、6・3・3・4制導入に伴う法整備や予算確保に尽力する。その後大学学術局長、[[文部省|文部]][[事務次官]]を経て、[[1951年]]周囲の推しにより福岡県知事選に出馬するも落選、首相[[吉田茂]]のはからいにより、[[内閣官房副長官]]に就任する。
 
官房副長官時代の「功績」として、戸籍届出における漢字制限の存続がある。戦後[[国語改革]]の一環として、新生児の戸籍届出において当用漢字以外は受け付けないことになったが、「命名権は[[基本的人権]]であり、漢字制限は憲法違反である」として、制限を事実上撤廃する「戸籍法の一部改法案」が可決されようとしていた。[[1951年]][[6月5日]]衆議院本会議の開会直前、剱木は[[自由党#自由党_ (日本_1945 1950-1955)|自由党]]国会対策委員長[[小沢佐重喜]]に直談判し、「'''私の下の名前(亨弘)が読めますか?…生まれてから今日まで、誰からも一度も正確に読んでもらったことはありません。親は自分の子供だからといって、人から読まれない名前を勝手に付けてよいのでしょうか'''」と熱っぽく訴えた。説得は功を奏し、結局法案採決は取り止めとなったという<ref>剱木亨弘: 戦後文教風雲録, 小学館, 1977年11月, p.142.</ref>。
 
[[1952年]]、[[岡野清豪]]文相の下で再び文部事務次官に就任。翌[[1953年]]、[[第3回参議院議員通常選挙]]に福岡選挙区から自由党公認で立候補し当選。以後連続4回当選。