「ヨハネス・アモス・コメニウス」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Luckas-bot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 追加: mk:Јан Амос Коменски
黒森 (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
1行目:
{{大言壮語}}
[[Image:Johan amos comenius 1592-1671.jpg|thumb|コメニウスの肖像画]]
[[Image:Relief Komensky.jpg|right|300px|thumb|チェコのDolayの学校にある[[レリーフ]]に描かれたコメニウス]]
'''コメニウス'''('''Johannes Amos Comenius''', [[1592年]][[3月28日]] [[モラヴィア]]東部([[ワラキア]])・ニヴニツェ [[:de:Nivnice|Nivnice]]/Nivnitz - [[1670年]][[11月15日]])は、[[チェコ]]の[[モラビア]]生まれの[[宗教家]]にして[[教育者]]。本名は、'''ヤン・アーモス・コメンスキー'''(Jan Ámos Komenský)という。コメニウスは[[ラテン語]]の執筆活動名。もっともコメンスキーという苗字も生まれた村の名前にちなんで(?)本人が後日考え出した名前だという。
 
== 経歴 ==
[[モラビア兄弟団]]あるいは共同生活の兄弟団という[[プロテスタント]]の一派の代表の1人で、その教団の営む教育施設の監督を勤めた。早くから全ヨーロッパにその知性と見識が知れ渡り、[[三十年戦争]]およびその後の[[宗教戦争]]で故国を追われ、終生、故郷に戻ることはかなわなかったものの、学校改革の指導者、教育改革の提言者にして、宗教的な[[福音]]の宣教者として、ヨーロッパ中の[[宮廷]]や[[議会]]から助言を求められ、そのなかには宰相[[リシュリュー]]、スウェーデン宰相[[アクセル・オクセンシェルナ|オクセンシェルナ]]、[[ドイツ]]、[[ハンガリー]]の諸侯に[[イギリス]]議会、[[アムステルダム]]市会も含まれていたというから、その評価の高さは言わずと知れるだろう。
 
== 現代教育への貢献 ==
現代の[[学校]]での[[教育]]すなわち[[学校教育]]のしくみを構想した。今日、日本をはじめ多くの国でみられる同一年齢・同時入学・同一学年・同一内容・同時卒業といったしくみは、コメニウスの構想に発するものである。コメニウスは、こうした学校のありかたを通じ、人びとがすべての知識を共有することよって、[[戦争]]が終わり、[[ヨーロッパ]]が一つになると考えた。この考え方は、現在の[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]に受け継がれている。
 
14 ⟶ 15行目:
また、コメニウスは、[[ライフサイクル]]の全般を通しての[[生涯学習]]を初めて体系的に語った教育学者でもあり、そのなかには、誕生前の母親に対しての教育、母親教育から高齢期には、自らの[[死]]への心の準備、死の受容といった今日的な観点も含まれている。
 
== 主要な著書 ==
* 開かれた言語の扉
* 地上の迷宮と魂の楽園
21 ⟶ 22行目:
* エリアの叫び
 
== 関連項目 ==
* [[図鑑]]
* [[学習図鑑]]