「クレメンス1世 (ローマ教皇)」の版間の差分

1世紀はまだ東ローマ帝国と呼ぶ時期じゃない
(1世紀はまだ東ローマ帝国と呼ぶ時期じゃない)
伝統的にクレメンスに帰された「[[クレメンスの第二の手紙]]」は、今日では2世紀半ばごろの成立と推測され、クレメンスの作ではないと考えられている。
 
死についての詳細は不明であるが、彼も初期のローマ司教たちと同じように[[殉教]]したと推測される。[[ローマ帝国]]の版図となっていた[[クリミア半島]]の[[ケルソネソス]]で[[致命者|致命]]したという伝承があり<ref>『諸聖略伝 十二月』71頁、[[日本ハリストス正教会]]府主教庁(2004年1月発行)</ref>、既に[[キリスト教]]が[[黒海]]沿岸のギリシア植民市に広まっていたことが示されている。ただしこの地域における[[キリスト教]]は、[[ルーシ]]内陸部にまでは定着しなかったとされる<ref>黒川知文『ロシア・キリスト教史』42頁(教文館、1999年初版)</ref>。
 
==脚注==