「聖書無謬説」の版間の差分

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イザヤ (会話 | 投稿記録)
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聖書無謬説を批判する立場では聖書は誤りある人間のことばに過ぎない。批判の要旨は、聖書を書いた「[[聖書記者]]」自身が人間であり、人間とは、聖書においてが強く語られているように、「愚か」で、絶対ではなく相対で、「限りのある有限な存在」であり、そして、聖書を書いた多数の聖書記者もこの愚かさと、有限を超越できないものだとすれば、神の啓示を受けたとされる「聖書」ですら、「[[オートマティスム|神の筆先]]」ではなく、人間の主観というフィルターを拭い去ることができずに聖書記者は書いている。しかも、聖書を正典としたのは愚かな人間が開催した会議で、人間が決定したものである。したがって、いたるところに説の違いがあるということを強調しつつ、聖書を歴史的批判的に読むべきだと主張する神学者もいる。その立場はリベラルの[[高等批評]]と呼ばれ、[[文書仮説]]が彼らの定説である。
 
聖書無謬説は、キリスト教関係のキリスト教関連用語として使用されているが、聖書に書かれていることは一言一句にわたって全く誤りがないと説き、しかも聖書をそのままに「文言を鵜呑みにする」ように読むべきであるという教義を、「聖書無謬説」であると定義する神学者と教派がリベラル派に存在する。また、これを[[天理教]]のお筆先と同様な[[オートマティスム|自動筆記]]だとして批判する者もいるが、聖書無謬説を支持する学者で、そのような主張をする者はいない。<ref>[[尾山令仁]]『聖書の権威』[[日本プロテスタント聖書信仰同盟]]</ref>
 
==脚注==