「恭帝 (東晋)」の版間の差分

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==生涯==
[[知的障害]]とされる兄・安帝と異なり、英明な資質があったと評される。[[劉裕]]が安帝を殺害して簒奪しようとしているのを察知し、常に安帝の傍にいたが、418年、彼が不在の際に安帝は殺害された。その後、劉裕により皇帝として擁立されたが、これはもはや[[禅譲]]の布石としての傀儡に過ぎなかった。そして結局、420年に劉裕に禅譲することを余儀なくされた。こうして東晋は滅亡し、新たに劉裕(高祖武帝)による[[宋 (南朝)|宋]]王朝が成立したのである。この時、「晋氏(東晋)はとうに滅んでいたはずだった、何を恨むことがあろう」と言ったと『晋書』にはある。
 
司馬徳文は宋によって[[永州市|零陵]]王に封じられた。なお、晋に禅譲した[[曹奐]]の子孫である陳留王・曹虔嗣は当初司馬徳文の上席とされたが、近い王朝を重んじるべきという[[荀伯子]]の進言で、司馬徳文が上席となった。司馬徳文は暗殺を恐れ、いつも褚皇后([[褚灵媛]])と一緒の部屋に住まい、出された料理は自分で煮てから食べた。しかし421年9月丁丑の日、劉裕の差し向けた兵により殺害された。齢36。劉裕は、司馬元瑜に零陵王を継がせた。
そして421年、劉裕より自殺することを命じられたが、<!-- 信仰を理由に ――根拠不明です。このままでは意味が取れないので一時コメントアウト -->自殺することを拒絶し、絞殺されたという。齢36。
 
東晋の正統性を認めていない『[[魏書]]』によると、劉裕の兵に服毒[[自殺]]を命じられたが、「[[仏教]]では、自殺者は人に[[転生]]できない」と拒んだので撲殺されたという。つまり、司馬徳文は仏教徒であった。また、同書によれば褚灵媛の兄・褚季之と弟の褚淡之は司馬徳文を裏切り、劉裕の意を受けて、司馬徳文の子が生まれるたびに殺害したという。
 
==宗室==
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*海塩公主 [[司馬茂英]] - [[宋 (南朝)|宋]]の[[少帝 (南朝宋)|少帝]]の皇后
*当陽公主
*他に、『魏書』によれば少なくとも2人以上の殺害された子がいた
 
{{先代次代|[[東晋]]の[[中国帝王一覧|皇帝]]|第11代:418年 - 420年|[[安帝 (東晋)|安帝]]|―}}