「イラン進駐 (1941年)」の版間の差分

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→‎侵攻: 侵略を受けたイランの油田が「確保」されたという記述はおかしいため、「略奪」に変更
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ソビエト軍は北から侵入し、[[マークー]]に向かって前進した。マークーは爆撃により防衛を破壊された。同様に[[カスピ海]]の沿岸[[バンダレ・パフラヴィー]]にソビエト軍が上陸した。この時、ソビエト海軍は、[[同士撃ち]]を行なうという事件が発生した。海軍の作戦で、2隻のイラン軍の軍艦が沈み、4隻がイギリス海軍により捕獲された。6人のペルシア人の兵士は銃殺され、イギリス軍とインド軍の損害は死者22人、負傷者42人であった。
 
イランを助けるために何者も介入せず、イランの抵抗はソビエトとイギリスの戦車と歩兵により速やかに圧倒されて無効化された。イギリス軍とソビエト軍は、[[8月30日]]に[[センナ]](Senna、[[ハマダーン]]の100マイル西)と、[[8月31日]]に[[ガズヴィーン]]([[テヘラン]]の100マイル西でハマダーンの北東200マイル)で遭遇した。イランは敗北し、油田は保護略奪され、価値ある[[イラン縦貫鉄道]]は連合国の手の内入っ落ちた。輸送手段の欠如により、イギリス軍はハマダーンとアフヴァーズの先に軍を進めないことに決めた。その間、イラン新首相[[モハンマド・アリー・フォルギー]]は、ドイツの大使とその人員がテヘランを去り、[[ドイツ]]と[[イタリア]]と[[ハンガリー]]と[[ルーマニア]]の大使館は閉鎖し、残ったドイツ国民は、イギリスとソビエトの当局に引き渡されることに同意した。
 
レザー・シャーは[[9月16日]]息子の[[モハンマド・レザー・パフラヴィー|モハンマド・レザー・シャー]]に帝位を譲り退位した。レザー・シャーは南アフリカに亡命した([[1944年]]に死亡)。その翌日、イギリス軍とソビエト軍の部隊がテヘランに入城した。