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==概要==
ボイドは一般に[[ジョージ・ハリスン]]と[[エリック・クラプトン]]の前妻として知られる。彼女はまたハリスンの「[[サムシング]]」および「[[フォー・ユー・ブルー]]」、クラプトンの「[[いとしのレイラ]]」、「[[スローハンド (アルバム)|ワンダフル・トゥナイト]]」や「[[デレク・アンド・ザ・ドミノス|ベル・ボトム・ブルース]]」といった[[ラブソング]]にインスピレーションを与えたとされる。
 
ボイドは[[1962年]]から[[ファッションモデル]]としての仕事活動[[1962年]]にたが、彼女はやや出っ歯であったため、当初は多くのカメラマンに当初は受け入れられなかった。中には「モデルたちは[[ウサギ]]に似てなどいない(ウサギのような前歯のボイドはモデルにふさわしくない)」という人までいた<ref name="PattieBiogPiczo"/>。 彼女はモデルとしての活動を受け入れられた後は、[[ロンドン]]、[[ニューヨーク]]、[[パリ]]([[マリー・クワント]]等)にて行いで活動し、撮影は主に[[デヴィド・ベイリー]](David Bailey)や[[テレンス・ドノヴァン]](Terence Donovan)といったカメラマンが行った。
 
==幼少期、モデルとしての経歴==
ボイドは[[サマセット]]の[[トーントン]]にて、コリン・イアン・ラングドン・ボイド (Colin Ian Langdon Boyd) とダイアナ・フランシス・ドライスデール(Diana Frances Drysdale)(1942年8月結婚)の間に産まれ。長女であり、コリン(1946年)、ヘレン・メアリー(1947年、後にジェニーと呼ばれ、[[ミック・フリートウッド]]と結婚する)、ポーラ(1951年)の43人の妹がいる。ボイドは彼女のお気に入りの人形の名前からヘレン・ジェニーと呼ばれるようになっていた<ref name="PattieBiogPiczo">{{cite web |first= |last= |url=http://patriciaannboyd.piczo.com/?g=10822657&cr=4 |title=Biography |publisher=Piczo |accessdate=2008-03-06}}</ref> 。パイロットであった彼女の父親が[[第二次世界大戦]]での重度の負傷に伴い[[イギリス空軍]]から除隊された後、1948年から1953年の間、ボイドは[[ケニア]]の[[ナイロビ]]に住した。ダイアナとコリン両親[[1952年]]に離婚し、母ダイアナは1953年にタンガニーカ(現在の[[タンザニア]])にてロバート・ゲイマー・ジョーンズ (Rober Gaymer-Jones)と再婚する。その後2人は4人の子供を連れてイギリスへと帰郷したする。夫婦はそれからパティ義兄弟にあたるデヴィッド J.B.(1954年)とロバート・ジュニア(1955年)の二人の子供をもうけた。ボイド彼らはパティの義兄弟にあたる。パティ自身は修道院付属の寄宿学校に1961年まで所属したのち、1962年にロンドンへ移住。そこロンドンボイドはファッション雑誌の人間にスカウトされ、モデルとしての活動を始めた。初仕事は[[エリザベス・アーデン]]のシャンプーの宣伝だった<ref name="DarkHorseTimeline">{{cite book |first=Geoffrey |last=Giuliano |url=http://books.google.com/books?id=Z3LucGjG_7AC&pg=RA1-PA240&dq=pattie+boyd&ie=ISO-8859-1&sig=jagEoUVOb41KW18YdRe3w3sfuhY |title=Dark Horse - The Life and Art of George Harrison |publisher=[[Da Capo Press]] |accessdate=2008-03-06}}</ref><ref name="FortuneCityBiog">{{cite web |first= |last= |url=http://members.fortunecity.com/pattiboyd/bio.html |title=A Pattie Boyd Biography |publisher=Fortune City |accessdate=2008-03-06}}</ref>。
 
ボイド彼女はモデルとしての活動をロンドン、ニューヨーク、パリで行い、撮影はデヴィッド・ベイリーやテレンス・ドノヴァンによが行て撮影され<ref name="BoydQuantBailey">{{cite web |first= |last= |url=http://www.geocities.com/SunsetStrip/Lounge/3117/pattie.html |title=Pattie Boyd, Quant and Bailey |publisher=Geocities |year=2000|accessdate=2008-03-31}}</ref>。1964年、彼女は[[ヴォーグ (雑誌)|ヴォーグ]]のイギリス版およびイタリア版の表紙に登場する<ref name="RockMuseRemembers">{{cite web |first=Anthony |last=Mason |url=http://www.cbsnews.com/stories/2007/08/23/sunday/main3198902.shtml |title=A Rock Muse Remembers |publisher=[[CBS News]] |date=2007-08-26 |accessdate=2008-03-31}}</ref>。ジョージ・ハリスンの恋人になった後彼女はグロリア・スタヴァーズ (Gloria Stavers) から[[シックスティーン・マガジン]]に連載を持たないつ話を持ちと尋ねられる<ref name="JohnPaulGeorgeRingoandMe">{{cite book |first=Tony |last=Barrow |url=http://books.google.com/books?id=BNnzcGw8JQsC&pg=PA244&dq=pattie+boyd&ie=ISO-8859-1&sig=uwFgg8_j9cGkb89ttfkkzbpBLC8#PPA243,M1 |title=John, Paul, George, Ringo and Me - The Real Beatles Story |publisher=Thunder’s Mouth Press |accessdate=2008-03-08}}</ref>。 1960年代の名なモデルである[[ツイッギー]]は、1966年にモデル業を始めた時に、ボイドのスタイルが彼女のもとになっていコメント発言した<ref name="Spitzp499"> Spitz (2005) p499</ref>。
 
==ジョージ・ハリスン==
1964年、ボイドが19歳のとき、ボイドハリスン出会った。きっかけは彼女が[[ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! (映画)|ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! ]]に[[ビートルズ]]ファンの女学生役で出演していたことだった<ref name="NewYorkTimesreview">{{cite web |first=Bosley |last=Crowther|url=http://movies.nytimes.com/movie/21522/A-Hard-Day-s-Night/overview |title=A Hard Day's Night (1964) |work=[[New York Times]] |date=2007-02-19 |accessdate=2008-02-27}}</ref>。しかしボイドは一年に渡って交際していたエリック・スワイン(Eric Swayne) と婚約寸前であったため、彼への愛情からハリスンの最初のデートの誘いは断ったものの。ただ彼女は、ハリスンは今まで出会った中で最も美しい男性だと語った<ref name="Spitzp499"/><ref name="dailymailpart1"/>。最初にハリスンが彼女に言ったことの一つは「僕と結婚しないかい?」だった。ボイドが笑ったため、ハリスンは「じゃあ、結婚してくれないなら、今夜一緒に夕食を取らないかいでもどう?」と言った。数日後、ボイドが映画の撮影に呼び戻された時、ハリソンは彼女再び尋ね誘い、そこで彼女はスワインとの関係を終わりにすることを決めた。二人の初めてのデートは[[コヴェント・ガーデン]]にある[[ギャリック・クラブ]](会員制の紳士向けクラブ) にて、ビートルズのマネージャーである[[ブライアン・エプスタイン]]を交えたものだった<ref>{{cite web |first=Elizabeth |last=Vargas |url=http://abcnews.go.com/GMA/SummerConcert/story?id=3546199&page=1 |title=The Real 'Layla' Talks About George Harrison and Eric Clapton |publisher=[[ABC News]] |date=2007-08-31|accessdate=2008-03-06}}</ref> 。
 
1965年、ボイドはハリスン、ジョン、そして[[シンシア・パウエル|シンシア・レノン]]が初めて[[LSD]]に遭遇した時にその場に居合わせていた<ref name="Spitzp565"> Spitz (2005) p565</ref>。原因はロンドンの警察官の息子で[[歯科医]]のジョン・ライリー (John Riley)が彼らのコーヒーにLSDを混入させていたことだった<ref name="CNN2005"/><ref name="DentistLSD">{{cite web |first=Ian |last=Herbert |url=http://findarticles.com/p/articles/mi_qn4158/is_20060909/ai_n16780362 |title=Revealed: Dentist who introduced Beatles to LSD |work=[[The Independent]] |date=2006-09-09 |accessdate=2008-03-10}}</ref>。4人は怒り狂い、激しい恐怖感を覚え。興奮状態の中で、ボイドは店の窓を壊すところであったが、ハリスンが彼女を引き戻した<ref name="Spitzp565-566"> Spitz (2005) pp565–566</ref>。
 
1965年12月、二人がロンドンをドライブしていた時、ハリスンはボイドにプロポーズをしたが、彼はビートルズのツアー予定が無いことを確認するためにまずエプスタインと話さなければならないと言った<ref name="GeorgeAskedEpstein">{{cite web |first=Pattie |last=Boyd |url=http://www.dailymail.co.uk/pages/live/articles/showbiz/showbiznews.html?in_article_id=473175&in_page_id=1773 |title=George had to ask Brian Epstein for permission to marry me |work=[[Daily Mail]] |date=2007-08-05|accessdate=2008-03-06}}</ref>。1966年2月21日、[[サリー (イングランド)|サリー]]の[[エプソム]]にて、ポール・マッカートニー(付添人)とエプスタインの出席のもと、ボイドはハリスンと結婚。[[ジョン・レノン]]と[[リンゴ・スター]]は妻と共に海外旅行に行き、結婚に関するジャーナリスト達の調査をかわしていた<ref name="dailymailpart1">{{cite web |first=Pattie |last=Boyd |url=http://www.dailymail.co.uk/pages/live/femail/article.html?in_article_id=473174&in_page_id=1879 |title=Pattie Boyd: 'My hellish love triangle with George and Eric' - Part One |work=[[Daily Mail]] |date=2007-08-06|accessdate=2008-03-08}}</ref>。1965年、パティはジョージとの生活をキンファウンス(Kinfauns)にて始め<ref name="InterviewMothersInLaw">{{cite web |first=John |last=Howard |url=http://www.angelfire.com/music3/sentstarr/motion.html |title=The inside story of George Harrison's marriage to Patti (sic) Boyd, as told us by his mother and mother-in-law |work=Motion Picture Magazine |year=1966|accessdate=2008-03-06}}</ref>。二人は後にエプスタインと共に休暇を取り、フランス南の[[エズ]]近くにあるキャプ・エストレル(Hotel Cap Esterel)に滞在している<ref name="GeorgeAskedEpstein"/> 。
 
1966年9月、レノンが[[スペイン]]で[[僕の戦争]](''How I won the War'')を撮影している間、ハリスンとボイドは[[シタール]]の名手である[[ラヴィ・シャンカル]]の客人として[[ムンバイ|ボンベイ]]へ飛んでに滞在しており、1966年10月23日にロンドンに戻ってきた<ref name="Spitzp644-655"> Spitz (2005) pp644–655</ref>。1967年8月24日、かねてから東洋[[神秘学]]に関心があり、スピリチュアル・リジェネレーション・ムーブメント(Spiritual Regeneration Movement)に参加していたボイドは、彼女はビートルズを[[インド]]の神秘論者[[マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー]]と会わせることを思い立つ。結果として彼らは[[バンガー]]を訪れ、彼と交流を持つこととなった<ref name="CNN2005">{{cite web |first=Todd |last=Lepold |url=http://www.cnn.com/2005/SHOWBIZ/Music/02/03/pattie.boyd/ |title=Harrison, Clapton and their muse |publisher=[[CNN]] |date=2005-02-03|accessdate=2008-03-08}}</ref><ref name="Spitzp710-711">Spitz (2005) pp710–711</ref><ref name="SydneyMorningHerald1">{{cite web |first=Steve |last=Meacham |url=http://www.smh.com.au/articles/2007/07/03/1183351210250.html |title=Beatle’s muse comes clean |work=[[The Sydney Morning Herald]] |date=2007-07-04|accessdate=2008-03-08}}</ref>。1967年6月25日、ボイドは[[われらの世界]]での[[愛こそはすべて]]の放送に参加<ref>{{cite news | last = Harrington| first = Richard| coauthors =| title = His Musical Notes Have Become TV Landmarks| pages = Y06| language =| work = [[Washington Post]]| date = 2002-11-24| url = http://player.interactual.com/news/McCartney.htl | accessdate = 2007-06-04}}</ref>。1968年、インドの[[リシケシュ]](Rishikesh)にあるマハリシの[[アシュラム]](ashram)をビートルズが訪れた際、彼女も同行した<ref>{{Cite book| publisher = Random House, Inc.| isbn = 0307393844, 9780307393845| last = Boyd| first = Pattie| coauthors = Penny Junor| title = Wonderful tonight| date = 2007-08-28|page=114}}</ref>。
 
===破局===
レノンと[[ミック・ジャガー]]もまたボイドに引かれていたと発言しており、ジャガーは1980年代当時の恋人であったベベ・ビューエル(Bebe Buell)に、彼がボイドを数年に渡って誘惑したがダメだったことを告白している<ref name="SydneyMorningHerald1"/><ref name="bebebuell">{{cite book |first=Buell, Bebe |last=Bockris, Victor |url=http://books.google.com/books?id=x3ldMZrwQrQC&pg=PA117&dq=pattie+boyd&ie=ISO-8859-1&sig=ecEjx5WD4lTAuzPutYq7Vu2nVUE#PPA117,M1 |title=Rebel Heart: An American Rock 'n' Roll Journey|publisher=St. Martin’s press |accessdate=2008-03-08}}</ref>。1973年、ボイドは後に[[ローリング・ストーンズ]]のメンバーとなる[[ロン・ウッド]]とのちょっとした軽い浮気をし、そこでハリスンとは破局した<ref name="WoodHarrisonSleepingWithWife">{{cite web |first=Ronnie |last=Wood |url=http://www.dailymail.co.uk/pages/live/articles/showbiz/showbiznews.html?in_article_id=484697&in_page_id=1773 |title=The night I told George Harrison I was sleeping with his wife |work=[[Daily Mail]] |date=2007-09-29|accessdate=2008-03-06}}</ref>。 ボイドによると、ハリスンは彼女との休暇を取り消し(病気であったとしている)、ウッドの妻であるクリシーを誘って[[サルバドール・ダリ]]に会いにスペインに行っていという。しかしハリスンはクリシーと関係を持ったことを後に否定している<ref name="dailymailpart2"/>。ボイドの弁解は、ハリスンがクリシー・ウッドとスペインに行っている間、彼女は妹のポーラと共に[[バハマ]]へ旅行しており、そのときにロン・ウッドが同行したいと言ってきたというものだった<ref name="dailymailpart2"/>。ボイドとウッドはロンドンに帰るとすぐ記者たちに嗅ぎ付けられ、1973年11月25日に二人のことが報道される。ボイドはハリスンの宗教探究の加熱と性格の変貌が、取り返しがつかないほど彼女を遠ざけたと述べている。その後1974年の6月に離婚。ボイドは[[ロサンゼルス]]にいた妹のジェニーのもとに身を寄せた。
 
==エリック・クラプトン==
1960年代の終盤、クラプトンとハリスンは親しい友人となり、作曲やレコーディングを共に行うようになった。クラプトンがボイドに恋に落ちたのはこの頃とされている<ref name="dailymailpart1"/>。クラプトンはまたボイドの17歳の妹のポーラにも恋をし、彼女自身も彼に引かれていた<ref name="dailymailpart1"/>。しかしポーラは[[いとしのレイラ]]を聞いてクラプトンの元を去った。クラプトンがポーラを彼女の姉の代わりとしていたことが、その曲から明らかであったからである<ref name="dailymailpart2"/>。ボイドは1970年代の後半に彼女がクラプトンのアプローチを拒絶した後、彼[[ヘロイン]]中毒に陥り、自ら[[アリス・オームズバイ=ゴア]](Alice Ormsby-Gore)と三年間放浪したと主張発言している<ref name="dailymailpart2"/>。一方で、クラプトンの[[デレク・アンド・ザ・ドミノス]]の唯一のスタジオアルバムである[[いとしのレイラ]]は、彼のボイドに対する愛を明らかにするために書かれたものであった。アルバムは同名の曲「いとしのレイラ」を収録しており、この曲は30年に渡って二つのヴァージョン共にヒットした<ref name="CNN2005"/>。
[[Image:Clapton.jpg|thumb|right|150px|ボイドと過ごしていた1977年6月、スイスのヴェッツィコーンのアイシャル・シアターにてライブを行うクラプトン]]二人は1979年に結婚。しかしその直後から二人外面的には完璧なカップルという外面のイメージによであたが、結婚生活での争いを覆に満ちて隠すようになる。ボイドは飲酒および薬物の使用を認めているのにも関わらず、クラプトンとは違い彼女は[[アルコール依存症]]や[[薬物依存症]]になることはなかった<ref>Wonderful Tonight, Epilogue; See also, ''Daily Telegraph'', 12&nbsp;August 1999; "Like many others in her circle, Boyd sampled the booze, dope and cocaine but, unlike Clapton, she knew when to stop."</ref>。ボイドはクラプトンがアルコール依存症の治療を試みなくなったことで彼から去ったと述べている。そして彼女は、写真家のウィル・クリスティーと付き合うようになる<ref name="dailymailpart3"/>。1984年にクラプトンはイボンヌ・ケリーと一年に渡って関係を持ち、1985年の1月に彼女との間に娘のルースが産まれた<ref name="ClaptonsDaughter">{{cite web |first=Marcus |last=Errico |url=http://music.yahoo.com/read/news/15392917 |title=No Kidding: Clapton a Dad at 59 |publisher=[[Yahoo]] |date=2005-03-02|accessdate=2008-03-07}}</ref>。クラプトンとケリーは娘の誕生について一切公表しておらず、1991年に行われたクラプトンの息子のコナーの葬式まで彼の子供と明かされなかった<ref name="dailymailruth">{{cite web |first=Stuart |last=Husband |url=http://www.dailymail.co.uk/pages/you/article.html?in_article_id=463772&in_page_id=1908 |title=The truth about Eric Clapton's Secret Daughter |publisher=YOU magazine |date=2007-06-23|accessdate=2008-03-08}}</ref>。ボイドは1999年までルースの存在を知らなかったと言っている。「最も傷ついたのはエリックが最初から子供のことを知っていたこと。彼私への愛がまだあると私に復縁を迫っていた一方で、彼はイボンヌに[[養育費]]を六年にも渡って支払っていたの。」<ref name="dailymailpart3"/>ボイドはクラプトンのアルコール依存症と結婚前から始まっていた幾度もの情事を数年間耐えた上で、彼と離婚したとしている<ref name="SydneyMorningHerald1"/><ref name="dailymailpart3"/>。結局、クラプトンの[[イタリア]]人[[モデル]]のロリ・デル・サントとの浮気が原因決め手となり、クラプトンとボイドは1989年に離婚した。ロリ・デル・サントは1986年にコナーを出産していた<ref name="Telegraph1999">{{cite web |first=Judith |last=Woods |url=http://www.telegraph.co.uk/htmlContent.jhtml?html=/archive/1999/03/17/tlboyd17.html |title=It's amazing we're still alive |work=[[Daily Telegraph]] |date=1999-03-17|accessdate=2008-03-08}}</ref>。またボイド自身は[[体外受精]]を試みたにも関わらず、妊娠することができなかった<ref name="dailymailpart3"/><ref name="Telegraph1999"/>。ボイドとクラプトンは離婚原因を「不貞行為(infidelity and unreasonable behavior)」としている<ref name="dailymailpart3"/>。彼ら二人の関係が散々なものだったのにも関わらず、クラプトン二人はその後数年に渡って彼女の友人であり続けた。
 
==曲へのインスピレーション==
ボイドはハリスンの[[ビートルズ]]としての楽曲、[[サムシング]]にインスピレーションを与えたと主張している。この曲はハリスンの代表曲とされており、[[フランク・シナトラ]]にここ50年で最高のラブソングと言わしめた<ref name="SomethingSinatra">{{cite web |first= |last= |url=http://www.bbc.co.uk/radio2/soldonsong/songlibrary/something.shtml |title=Something - The Beatles |publisher=[[BBC]] |accessdate=2008-03-07}}</ref>。ボイドはハリスンが「サムシング」を彼女のために書いたと言ったとしているが、二人が離別した後は、ハリスンは[[レイ・チャールズ]]のための曲を考えていたと言っている<ref name="dailymailpart2"/>。ボイドはまた「ベル・ボトム・ブルース」にもインスピレーションを与えたとしている。伝えられるところによれば、クラプトンが[[マイアミ]]への旅行帰りに彼女にジーンズをプレゼントした後にこの曲を書いたということである<ref name="dailymailpart2">{{cite web |first=Pattie |last=Boyd |url=http://www.dailymail.co.uk/pages/live/femail/article.html?in_article_id=473206&in_page_id=1879 |title=Pattie Boyd: 'My hellish love triangle with George and Eric' - Part Two |work=[[Daily Mail]] |date=2007-08-04|accessdate=2008-03-08}}</ref>。これは同じアルバムの「いとしのレイラ」にも現れている。この曲名はクラプトンが友人から聞いた[[ペルシア]]に伝わる報われない愛の物語から取られている<ref name="crossroads">{{cite book |first=Michael |last=Schumacher |url=http://books.google.com/books?id=rrFJmTceXX4C&pg=PA145&ots=KU2rhsXo8U&dq=pattie+boyd&sig=hqOuWs43W_YSeeU_Px-jY9Emuj8#PPA146,M1 |title=Crossroads: The Life and Music of Eric Clapton |publisher=[[Citadel Press]] |accessdate=2008-03-08}}</ref>。
 
1976年9月7日に、クラプトンは[[ポール・マッカートニー]]と[[リンダ・マッカートニー]]の年一度の[[バディ・ホリー]]パーティへのボイドの準備が済むのを待っている間に、[[ワンダフル・トゥナイト]]を書いた。「ワンダフル・トゥナイト」について、ボイドは「あの曲は何年も私をあの曲に傷つけられているわ。エリック、その前はジョージにああいう曲を書く刺激を与えたことは私にとってとても嬉しかった。『ワンダフル・トゥナイト』は私たち二人の関係を最も強く思い出させるの。だから、うまくいかなくなってしまったでは聴くことがとても苦痛なのだわ。」と言った<ref name="dailymailpart3">{{cite web |first=Pattie |last=Boyd |url=http://www.dailymail.co.uk/pages/live/articles/showbiz/showbiznews.html?in_article_id=474705&in_page_id=1773 |title=I'd pray Eric would pass out and not touch me' - Part 2 of Pattie Boyd's sensational autobiography |work=[[Daily Mail]] |date=2007-08-11|accessdate=2008-03-08}}</ref>。
 
==写真と自伝==
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現在では、ボイドは[[ウェスト・サセックス]]の17世紀の小別荘に暮らしており、彼女の叙述とクラプトンの自伝の競争を楽しんでいるらしい<ref name="SydneyMorningHerald1"/>。アメリカでは、ボイドの本は[[ニューヨーク・タイムズ]]のベストセラーリストに初登場1位となった<ref>{{cite web |url=http://www.nytimes.com/2007/09/23/books/bestseller/0923besthardnonfiction.html?_r=1&oref=slogin |title=New York Times Best Seller list for 9/23/07 |accessdate=2007-09-18 |work=New York Times}}</ref>。
 
ボイドがハリスンやクラプトンと過ごした間に撮影した写真の展覧会が、[[2005年]][[2月14日]]に「Through the Eye of a Muse」と題して[[サンフランシスコ・アート・エクスチェンジ]](San Francisco Art Exchange)にて開かれた。この展覧会は2006年の2月にサンフランシスコで再び開かれたのち、6月から7月の6週間に渡ってロンドンでも行われた。2008年9月には[[ダブリン]]のギャラリー・ナンバー・ワン、2008年の11月12月には[[カナダ]]の[[トロント]]のグレート・ホールにて展示されている。同展はまた2009年12月に[[オーストラリア]]の[[シドニー]]のブレンダー・ギャラリー、2009年12月28日から2010年1月10日までには[[バルバドス]]とランカスター・グレート・ハウスにて展示された。
 
==脚注==