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'''今川 範忠'''(いまがわ のりただ、
[[嫡男]]として生まれたが、父が晩年に範忠を廃嫡して末弟の[[小鹿範頼|今川千代秋丸]]に譲ろうとしたため、これが原因で兄弟間の間で家督争いが起こった。[[永享]]5年([[1433年]])、父が死去すると、[[鎌倉公方]]
これらの経緯から幕府に対する忠誠心が強く、[[永享の乱]]や[[結城合戦]]では常に幕府方として参戦し、武功を挙げた。この功によって義教より今川姓を範忠子孫のみに許して同族庶流の今川姓使用を禁じる「'''天下一苗字'''」(この世に一家だけの姓とする)の[[恩賞]]が与えられ、以後範忠の直系子孫を今川氏の宗家とする事が保障された。この出来事で分家の[[今川範将]]は[[堀越氏]]を名乗ったとされる(異説あり)。
[[康正]]元年([[1455年]])には8代将軍
寛正元年([[1460年]])[[正月]]に駿河に帰国、
家督相続時に義教から大恩を受けていたため、終始幕府に忠実で、関東の監視役を務めていた。
{{今川氏歴代当主|駿河今川氏||1433年 - 1461年}}
[[Category:今川氏|のりたた]]
[[Category:室町時代の人物|いまかわのりたた]]
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