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1842年7月13日、オルレアン公が馬車事故により不慮の死を遂げると、ルイ・フィリップ王の後継者には新たにオルレアン公爵夫妻の長男のパリ伯爵[[フィリップ (パリ伯)|フィリップ]]が指名された。パリ伯爵が幼くして祖父から王位を継いだ場合、成人まで摂政が置かれることも定められた。摂政にはパリ伯爵の母親であるエレーヌと、亡きオルレアン公の次弟[[ルイ・シャルル・ドルレアン (ヌムール公)|ヌムール公]]の2人の名前が挙がったが、最終的な決定は下されないままだった。
1848年の[[1848年のフランス革命|2月革命]]により、ルイ・フィリップはフランス王位を追われた。エレーヌは王制の廃止を避けるため、自ら幼い息子パリ伯爵の摂政となることを宣言し、2人の息子を伴って[[リュクサンブール宮殿]]の[[元老院 (フランス)|元老院]]の議場に入った。エレーヌは長男がフランス王位の相続者であり、その成人まで自らが摂政として国務を執る
エレーヌは息子たちと一緒にドイツの[[アイゼナハ]]に亡命し、その後も[[オルレアニスム|オルレアン家の復権のための運動]]を続けた。しかしフランス国内の君主制支持者たちは、[[アンリ・ダルトワ|シャンボール伯爵]]を家長とする[[レジティミスム|ブルボン正統王朝の復権]]を支持するようになっていった。
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